電車の揺れる音がする。
 そっと瞼を上げると、僕一人が木の臭いのする座席に座っていた。
 窓の向こうには暗い夜が覆い被さっていた。その中で、遠い空だけがうっすらと、黒から紫へと変わり始めていた。
 もうすぐ夜が明ける。この電車は、どこまで行くんだろう。
 どこでも構わない。僕はもう一度目を閉じて夢の世界へと帰った。行くところまで行こう。夏の夜明けが、やってくる。

夏の蝶


 眩しさで瞼が痛い。
 目が覚めると、窓の向こうはひどく明るくなっていた。電車は相変わらず家の一つも見えない山を走っていた。いや、山の中を走っていたのは昨日の事だ。今、広がる木々の向こう側に少しだけ海が見えた。
 けれど、寝起きだからだろうか。全く色が見えない。僕の前にはモノクロの世界しか映ってこなかった。古い座席も、木製の窓枠も、ガタついた窓も。全て灰色の強弱でしか映っていない。
 蝉の声と波の音が線路を走る音に混じる。まだ海は見えないけれど、かなり近いのは確かだった。どこか目的地があった訳じゃない。ただどこかへ行きたかっただけ。どこまで行っても良かった。けれど、電車の速度が遅くなり、景色の流れ方が緩やかになってくると、僕は何となくここで降りようという気になっていた。僕は何の手荷物も持たないままにその席を立った。車両のほとんどが木製で、歩くと木のきしむ音が所々で聞こえる。扉についた小さな窓の中の景色が止まった。空気の抜ける音がして、鐘の音が車内に響いた。僕は取っ手をとり、その古いドアを開くと、真夏の空気が車内に流れ込んで、僕の肌を包んだ。
 
 白い石のホームに足を降ろすと、夏の暑さが靴を通して感じられる。眩しい光が瞼にのしかかり、痛む目で辺りを見回すと、この駅で降りる人は僕一人だった。後ろ手で扉を閉めると再び鐘の音が鳴り響き、電車はゆっくりと、その重い体で走り始めた。小さな風で僕の頬を撫でながら電車はさらに先へと走っていった。
 あたりから音がなくなると、蝉の声が聞こえ始めた。
 傍には駅名を書いたプレートがあったけれど、近づいてみると、この駅の名前の部分はすっかり消えてしまっていた。同じようにこの次の駅の名前もなかった。一つ前の駅が…新宿。そんな馬鹿な、と思いはしたけれど、確かに僕はいつも新宿で乗り換える。みんなと分かれた後、確かに僕は新宿にいた。
 ただ、この駅名はきっと同じ名前の違う駅だろう。よくある名前には違いないのだから。
 暑さに耐えきれず辺りを見回すと、小さなホームの端に駅舎があり、それは遠目からでもものすごく古い感じがした。色はわからないけれど、木造の駅舎に常緑樹の葉がかかり、石のホームの照り返しで駅舎自体が揺れて見える。少し歩き、駅舎の中に入ってもやはり真夏の空気が満ちていた。改札には誰もいなかったし、切符を置く場所すらない。僕は切符を探したけれど、不思議とそれすら見つからなかったので仕方なくそのまま通り抜けた。
 駅を出ると、そこは真っ直ぐに続く木々のトンネルだった。背の高い夏の木々が多くの葉で砂の道の上に屋根を作る。きっと綺麗な緑なんだろうと思うけれど。今の僕にはその色は見えない。
 木々の屋根の向こうにちらちらと太陽が見え隠れする。光が葉の間を縫って漏れてくる。
 けれど不思議とそこに真夏の眩しさはなかった。
 灰色のフィルターを通したように、木の緑も、空の青も、砂の色も、色合いがなく現実味がなかった。白黒テレビを通して見たように。どうしてこんな見え方しかしないんだろうか。
 ふと、並んだ木々の中に小さな白が見えて僕は立ち止まった。何歩か戻って、木の幹に顔を近づけると、そこには白いボールのようなものが張り付いていた。
 その丸い白に触れると、どこか生きているような感触が伝わる。これは、明らかに季節外れではあったけれど、間違いなく、さなぎだった。ただ、この暑さの中でこんな厚い繭に閉じこもっているのであれば、..中は、きっと生きてはいないだろう。
 繭の前でじっと立ち尽くしていると、徐々に繭の中のような暑さが僕を包み始めた。このトンネルも繭と同じように熱を溜めこむのだろう。
 僕も、さなぎと同じなのかも知れない。
 木々の屋根の向こうからくすんだ太陽が光を降らし、砂の含んだ夏の暑さが木々のトンネルに籠もる。まるでサウナのようだ。再び僕は歩き出したけれど、歩くに連れて僕の身体は少しずつ汗ばんでくる。一筋の汗が首筋を走り、シャツの内側へと入っていく。道は緩やかな下り坂で、僕一人が木の屋根の下を歩き続ける。自然と顔はうつむきになり、歩く速度も少しずつ落ちてくる。一体どこまで続くんだろう。そう思った時、突然、蝉の声が途絶えた。
 顔を上げて見回すともうそこには、さっきまでのトンネルはなくなっていた。籠もる暑さも消え、僕の目の前には広い砂浜と、果てのない海があった。
 波の音と、遠くからの小さなはしゃぎ声がいくつか聞こえた。
 船はなかったけれど、沖ではしゃいでいる人達が何人かいた。彼らの笑い声は他に少しも人のいない海を渡ってここまで届いた。
 海の色は青と言うより、灰色に近かった。波打ち際にまで近づいてみると、海からの熱い風が僕の服を揺らした。灰色のフィルター越しでも風の向こうで遊ぶ人達は本当に楽しそうに見えた。
 僕も海に入ってみたい。そんな気持ちはあったけれど、僕は靴を履いているから、入れない。僕は、入っちゃいけない。
 数歩後ずさりして、灰色の海から離れる。
 海の他にも何かあるかも知れない、自分にそう言い聞かせて彼らを横目に僕は砂浜を歩き始めた。砂は太陽の熱を吸い込んでいて、上を歩くだけで音と一緒に熱がにじみ出しているようだった。歩くほどに靴は少しずつ、少しずつ重くなってくる。足の裏に砂の感触がある、おそらく靴に砂が入り込んでいるんだろう。砂の上げる熱が駅のホームと同じように、目の前の景色を揺るがせる。
 僕は夢を見ているのかも知れない。
 そんな言葉がふいに頭をよぎった。いつものリズムから離れて一人で海を歩いているなんて、僕のできる事じゃない。誰も僕がそんな人間だとは思わないだろう。
 みんなと離れて、一人砂の上を歩いているなんて。
 僕は、みんなから離れて何をしているんだろう。
 とても、とても長い間歩いていた気がした。けれど、実際には沖で遊んでいる人達の見え方がほとんど変わっていなかった。砂が靴に入ってきて気持ち悪い。汗も止まらないし、息も少し早い。
 でも僕は海で遊ぶ人達のようにはなれない。僕はそういう性格じゃないから。
 ため息が一つ漏れる。
 キリがないので僕は引き返す事にした。逆を向いて、靴が濡れないように波打ち際から少し離れた所を歩く。けれど、その時にはもう、歩いている理由すらわからなくなっていた。何のためにここに来たのかも。自分が何をしたいのかも…。
 気が付くと、足は止まっていた。
 沖の人達の声と、波の音だけが僕の中を通っていく。辺りの空気がどんなに暑くても、僕の右手はいつも固く握りしめられていた。まるで何かを守るように。
 とても大切なものを守っていた、ずっとそんな気がしていた。
 けれどゆっくりとその固いこぶしを解いてみると、ぎこちない指の合間には何も入ってはいなかった。夏の風が通ると、汗ばんだ手のひらにすっと涼しさが通り抜けた。
 ふと足下に目が行く。靴にはほとんど砂がついていなかった。僕は自分のまとっているものを汚したくなくて、海にも入らなかったし、歩き方にまで気を配っていた。
 でもそんな中でふと思う。
 …この靴は、そんなに大切なものだったろうか。


 右手が靴を脱がし、素足が砂に触れた。小さな砂粒のくすぐったい感触が指先に走る。僕は靴を右手に持ったまま、ゆっくりと、波の方へと歩いてみた。小さな砂の感触は不思議な感じがする。波の前で立ち止まる。波はちょうど僕の指先に触れるか触れないかの所で引き返して行く。濡れた砂はもう熱さをにじませはしなかった。ここはまるで違う場所のようで、振り返ると、さっきまで僕のいた場所は少し遠くに感じられた。
 心の奥の方に、訳もなく嫌がる気持ちがある。ためらいも隠せないまま、それを抑えて一歩だけ、波に足を踏み入れてみる。冷たい感触が足に沿って流れ、そして引いていく。その感触は僕にとって初めてだったのかも知れない。波の後を追って砂粒がさらさらと流れていく。僕の肌に触れると、灰色の波に少しだけ、くすんだ青が混じりはじめた。まるで水の中に青の絵の具をたらしたように。さっきまでの気持ちは波と一緒に流されていった。
 もう一歩、踏み出してみる。不思議と戸惑う事はなく。
 両足首が海に浸ると、青はさらに広がり、海からくすみが消えていく。波が寄せると、その上を風も同じリズムで吹いてくる。これ以上進むとズボンの裾が濡れるのがわかっていた。それでも僕は気にせずにまた少しだけ踏み出した。
 波に触れれば触れる程、青が広く、深くなっていく。
 僕は服の事は忘れ、膝下まで海につかっていた。見回すと、もう海だけでなく、木々も、人も、空も、太陽も、何もかもが鮮やかな色合いを見せていた。
 足下を見ると透明な水の奥に僕の素足があり、水の鏡には色のある僕がいた。自分の色なんて今まで知らなかったし、自分の事なんて何も見えなかった。初めて出会った海の中の僕はこっちを嬉しそうに見つめていた。
 遠くから沖の人達のはしゃぎ声が聞こえる。
 僕は思わず笑いながら、全身の力を抜いた。身体がゆっくりと傾き、僕は後ろの波へと倒れ込んだ。右手に持つ、ずっと守っていた固い靴を手放して。
 水しぶきが飛び跳ね、僕の背中は海につかった。服はびしょ濡れでも、もう気にならない。背中から首筋まで波が押し寄せては引く。ひんやりした背中と太陽のあたる肌の熱さのギャップは初めてだった。それは、とても自分に心地よかった。何も、怖がる必要なんてなかったんだ。
 僕はしばらくそのまま動けなかった。胸の奥からこみ上げる初めての感覚に浸っているだけだった。ゆっくりと。隣を見てみると、僕の靴は波の中でおぼれていた。もう、この靴は必要なくなっていた。
 僕は笑いながら、また波に背中を預ける。真っ青な空と、熱い光が僕を迎えてくれていた。
 僕と青い空の間を、鮮やかな色をした蝶が横切っていった。
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