例えば、あなたの一番大切な人が突然いなくなった日を想像してみて下さい。

失くした指輪


微熱がずっと治まらない。授業を受けていても、こんな状態だと耳に残しようがない。ほてる身体から力が抜け、机の上に顔を横たえる。
添えた右手には一つの指輪。暇さえあればこれが常に目に入る。
その向こうにはぼやけて知加の寝顔が見える。きっと起きれば顔に赤い線がついているだろう。
その前に座る貴子はわりと授業を聞く方だが、あまりのつまらなさのせいか、彼女の後ろ姿も時折、微かに揺れている。貴子ももしかすると、眠っているのかも知れない。
まあ、どちらにしてもあまり考える気にはなれない。何もかもがぼやけているから、時間感覚もろくにない。授業が終わってみんなが騒ぎ出したのを聞いてもあまり終わりという意識がなかった。ただ雑音が増えた程度にしか思えない。
「ね、久美。大丈夫?」
知加が机の横から私の目をのぞき込む。近くで見ると、彼女は意外と綺麗な目をしているように思える。
「最近何か元気ないね。何かあったの?」
貴子の声が頭の上から聞こえてきたので、顔を上げて椅子にもたれる。クラスのみんなは大体クラブの方に行ってしまったのか、教室にはあまり人は残っていなかった。
「別に何もないよ?」
言いながらカバンを出して机の中の荷物を詰め込む。ほとんど使っていないノートばかりが目に付く。それらを全て収めて閉じると、留め金の音が頭の芯を突き刺し、思わず眉をひそめる。
考えられない頭の中で痛みがにじんでいくのをじっと待っていると、知加は留め金に添えた私の手を取って、顔を寄せながらじっと見入った。
「いつもこの指輪だよね。いいな、そういうのくれる彼氏って」
「知加にもいなかったっけ? どこかの男」
貴子がスカートを押さえながらつま先を伸ばして机に座る。
「いないよ、あいつとは別れたし。貴子も思わない?  あいつ、生意気だって」
曖昧な生返事を返す貴子を余所に、私は自分の口元に両手を当てて肘をつく。指輪が唇にそっと触れる。

….慎也、いるの?


知加の口調には徐々に熱が入り、口元が歪んでくる。貴子の目線が知加から外れがちになっているのに気付かないのだろうか。
身体を机にあずけて黒の鞄にこめかみをあてると、鞄の冷たい感触だけが頬を伝って感じられる。
知加の声ばかりが聞こえる。いつも忙しいとか、知加をあちこちに降りまわすとか。
「ここにいたら、絶対に許さないわね」
彼女の声がはっきりと自分の中に入り込み、そして私の中を通り、何かを飲みこむ様に下っていく。それが机の影になった胸の奥に届いた時、不快な熱がわき上がった。微熱のけだるさとは質が違う。その熱は一気に気道を逆流した。私がとっさに口元に両手を当て、喉の奥で何とか抑えこむと、全身にひどい緊張が走り抜ける。その場に立ち上がると、二人の間から言葉が消えた。椅子を払いのけて、ドアの方へとかけだす。嫌な音が耳の中を通って行った。

「…っ! …は…っ!」
洗面台の排水口がずいぶんと近くに見える。胸の奥が何かを吐き出そうと押し上げるけれど、何も出てくるはずはない。もうずっと、何も口にしていないのだから。
気管支につまった熱がわずかに冷めて、時折あえぎ声と一緒になって出て行く。口の中に酸の味が残っている。荒い息を吐く口元を軽く拭いて鏡の中をのぞきこむと、硝子の向こうの私は微熱でひどい顔をしていた。
周りに誰もいない事に感謝しながら、冷たい水で顔を洗う。ほてった肌にその冷たさが心地良い。
瞬きの後に瞼と鼻の頭から水滴が連続して落ちていく。顔を上げると、鏡の中の彼女はひどくみじめな目で私を見ていた。
たとえ水を拭い取っても、変わることなく鏡は今の私を映して続ける。

「久美、本当に大丈夫?  一人で帰れる?」
貴子が私の背中に手を当てながら隣を歩く。日が暮れはじめたせいか、少し空気が冷たい。街灯もいくつか灯りはじめ、オレンジ色の光をあたりに振りまく。
駅へと続く道も夕方になって人が増え始めたようだった。
「ごめん、心配かけて。駅にはお母さんに迎えに来てもらうから」
「実は彼氏が迎えに来たりして」
知加が笑いながら私と貴子の少し前を歩く。彼女は私の分の鞄も持ってくれているので、ふさがった両手で肩をすくめる。
「あの人はいつも忙しいから」
「そうなんだ。でも指輪くれるくらいだから、久美から言ったら会ってくれると思うよ?」
「…だと良いんだけど」
言いながらずっと同じ笑顔を浮かべている。鏡の中で見た自分の表情がさっきからずっと離れない。
「あ〜あ。私も男ほしいな〜」
知加の間抜けな声に私たちの間に笑い声が響く。知加も自分で言っておきながらバカ笑いをしている。冷たくなりはじめた街の空気が私の肺にまで入りこんで、身体の奥の熱を冷ましていく。むしろ冷えすぎた肺だけが、冷たく心臓を挟み込んでいるようだ。
知加や貴子と同じ笑顔が心臓と離れたところで固まっている。

「じゃ、私こっちだから、また明日ね」
「うん、気をつけてね」
知加と貴子は軽く手をふって二人並んで、地下鉄の駅の方へと歩いていく。二人の姿が見えなくなってから、目の前の、いつもの駅を通り抜けて反対側から外へ出た。さっきまでの賑やかな駅前とは違い、山側の出口はずいぶんと人が少ない。木々は空気の寒さに震え、赤から紫へと変わり始めた空を見上げている。
彼らの落とす細かく暗い影の中を歩いていくと、街の喧騒が徐々に遠ざかる。駅からずいぶんと離れ、静けさが空気になって辺りを包む頃、丘を昇る階段がおわり、風に揺れた枝が暗い葉を辺りに落とす。
道に添って並んだ木々が急に途切れ、代わりに林のように並んだ石の柱が現れる。
近付くごとにそれらは本当に人がいるかのような存在感を持ち始める。その下に眠ってはいるだろうが、決してそこに人はいない。わかっているはずなのに、ここへ来るとどうしてもこの感覚が消える事がない。花の添えられた誰かの石柱を通りすぎ、紫の空の下、少し暗く見える一本の柱の前に立ち止まった。花はもう枯れてしまっていた。今日もここに足を運んでいる。どうしても慎也がここにいるような気がして。
枯れた花を取って地面に並べると、それはまるで喪服に身を包んだ人々の表情のように見える。
涙と一緒に慎也への想いをたれ流して、涙が枯れると笑いあった人々。
微熱がさっきから治まらない。まだ私の中には慎也がいる。この指輪にも。
これさえなければ…きっとどこへでも行ける。気管支にまた熱がこみ上げる。
さっきと違い、熱が痛みをはらんで、慎也への想いが溢れそうになる。両手でまた口元を押さえてうずくまると、私のプライドが溢れそうな気持ちにフタをする。
両膝に砂利が食いこみ、もたれた石垣からは冷たさだけが伝わってくる。
見上げた柱には文字があるだけで、もうそこには誰もいない。ただ、日が落ちて空が青さを失っていくだけ。

実は彼氏が迎えに来たりして


知加の言葉が耳をよぎる。いっそ迎えに来てほしい。指輪ひとつで、私をこんな世界に縛りつけないで…。

…失くした指輪はどこにあるの?



fin
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