M

 …失敗した、と思った。もともと、私は満月の下で死ぬつもりだった。 夜なら人は少ないし、星も綺麗だ。誰にも邪魔はされないはずだった。
私はただ、そう思ってビルの屋上の、いつでも跳べる場所でじっと考え事をしてただけだった。死ぬ前の考え事は、どうしても悲観的なものになってしまう。
その悲壮感に酔っている時間が長すぎた。 気がついた時には、落下防止の柵の向こうで警官が必死で何かを叫んでいた。(正確には私が防止柵の外側にいるんだけど)  しかもビルの下にはパジャマ姿のやじ馬の群れがいる。
深夜を選んだつもりだったけどやっぱり、少し早すぎたのだろうか…。 ひどく目立ってる自分がいた。ビルの屋上に。…いつでも死ねる場所に。 …でも死にたいからって、誰がそれを認めてくれるの?   そして警察の手はいつも決まっている。人情作戦だ。「君のお母さんが悲しむぞ」という例のやつ。
…あれは、一種の人質のようにも見える。警察が人質をタテにして、自殺を止めようというのだ。
本当に自殺する立場に立ってみて初めて思った事だけれど..。 もし、その人質が家族とか友達とか先生だったりしたら、迷わず跳んでやるつもりだった。連中の目の前で。 …けれど、やって来たのは真一だった。 普通、こういう所に恋人は呼ばない。恋愛関係のもつれが自殺原因の上位を占めるからだ。
私には失恋くらいで死ねる人の気持ちはわからなかったけど。 …死ぬのって「自由」なのかな…   おそらく両親が嫌がったのだろう、私の説得を。当たり前といえば当たり前だ。
普段から会話もしないのに、説得なんてできるわけないもの。それで真一になったわけだ。
予想外だ。少し考えればわかる事だったのに。
…彼にだけは来てほしくなかった。真一だけが特別だったから。
人の……ひとの心のなかには天秤がある。 それがどちらに傾いているかで幸せか不幸かが決まると思う。自分だけの心の中の話。 親も友達も先生も、皆がそろって天秤の片側に乗ってくる。死にたくなるような、不幸な方の皿の上に。 そして、ひとりだけ逆の皿に乗って私を幸せにしてくれた人もいる。 今までは、それでなんとかバランスがとれていた。 けれど、もうそれもダメになってしまった。やっぱり不幸の皿の方が圧倒的に重たかった。
だんだん天秤がきしんできて、私も少しずつすさんできた。 このままだと、いつか天秤は壊れてしまう。その時、自分が何をするのかわからない。 それが怖い。それがとてつもなく怖かった。怖いから…壊れてしまう前に、死んでしまいたかった。
死ぬのは自由だよ。だって生きているのは自分だもの
…真一が歩み寄ってくる。柵の外側の私へと。
「…近づいたら、とぶよ?」
軽くいってはみるものの、止まる様子はない。ウソなんてすぐにバレてしまう。 もともと、それほど本気で言ったわけでもないけれど。 結局、彼は柵の前までやって来た。私と真一は、お互いに触れられるほど近くにいる。
けれど、私たちの間は柵がある。
そして、多分私たちはこの柵を越えられない。
「真衣…」
すぐ目の前の彼の口から私の名が漏れる。彼にだけは何も言ってほしくはなかった。せっかくの覚悟が薄れてしまう。 そして、もしここで止めてしまっては、また明日から不幸な時間が始まる。 その時、私にはその辛さに耐えるだけの自信なんてカケラもない。
自信なんてものは、ずっと昔に誰かに壊されてしまったままだ。
-お願い…。何も言わないで…-
切に願う。 彼はまだ何も言わない。何もいわずに、そっと耳のイヤホンを取りはずす。
彼が取るまで気づかなかった。
『真一君! 早く説得を始めるんだ! 少しでもいい、時間をかせげ!』 
おそらく警官の、それも上の人間の声だろう。イヤホンからかすかに聞こえる雑音まじりのその声が私たちの間で響き続ける。
「ひどいよね…。こんなのって…」
ほとんど聞き取れないような小さな声をもらしながら、彼はイヤホンを軽く放り捨てた。
それはきれいな曲線を描きながら落ちてゆき、何十メートルも下で消えてしまう。
彼の考えがわからなかった。警察の言う事を聞きながら私を抑えないといけないはずなのに…。
彼は柵に両ひじをついて、じっと月を眺める。信じられないくらい、思いつめた目で。私もつられて、柵を握ったまま月を仰ぎ見る。 
……どこか違和感がある。月の輪郭が少しボヤけて見える。
-…満月じゃない…。ほんの少しだけ欠けてる…-
今まで気付かなかった。そうだ。日付からいってもずれている。
…十六夜…だ。ずっと満月だと思いこんでいた。
…月にまで裏切られたね。 …いいよ。もう慣れたから。
もう月をみていても仕方ないので、真一に視線を戻す。すると、真一と視線がぶつかった。
ずっとこっちを見ていたのだろうか。 彼は今までに見た事もないほど、思いつめた目で口をひらいた。
「本当につらかったら…いいんだよ…」
彼の言葉は私を動揺させるには十分だった。信じられなかった。
「僕の事は気にしなくてもいいよ…。真衣は自分の足で生きてるんだもの…。自分でその足を止める自由もあると思う…」
「私…、自殺しようとしてるんだよ? …認めてくれるの…?」
そっと…真一がうなずく。
…自分の気持ちを表現できなかった。たったひとり…。 真一だけが認めてくれる。世界中の人間を敵にまわした私を。
ふと、手に何かの感触がわく。真一の手がそっと私の手を握っていた。いつものように優しく…。
それで、なんとなくわかった…。このひとも辛いんだって…。 …だから、真一にだけは来てほしくなかった。このひとと一緒にいると生きたいと思ってしまう。
もう辛いのは嫌なのに…。
「…ごめんね…」
どっちが、口にしたんだろう。
私か…真一か…。
お互いに相手の気持ちが痛いほどに胸をつく。
彼がほしいのは強さ…。私の自殺にたえる、ただそれだけの。 私がほしいのは…一歩ふみ出すための勇気。 これが最後になると感じた。もう彼の手に触れる事もなくなる。
そんなことを考えるだけで、ひどく心が痛い。目の奥があつい。
今、もし鏡を見ればきっとひどい顔をしているだろう。夜風にさらされた肌が涙でぼろぼろにぬれているのだから。
「私、バカだよね…。泣くほど嫌ならやめればいいのにね…」
真一がうつむきながら、何度も首を横にふる。 涙が止まらない。真一も私と同じ顔をしていた…。 そういえば、このひとはひどく涙もろかった。映画館に行く度に泣いてしまう。
私よりずっと感受性の強いひとだった…。こんなに大切なひとと自分から別れようというのだ、私は。
真一といる時、幸せな分、他人といる時はひどく辛い。 真一とずっと一緒にいられたら自分はずっと幸せでいられた。
他の人とずっと一緒だったら迷わず自殺できた。 どちらか片方だけならよかったのに、幸せと不幸はいつも交代でやって来る。 それに疲れてしまった…。その結果として真一を苦しめる。
「真衣……」
真一が私の名前を呼ぶ。彼は私を見ずにビルの片隅に目をやった。涙でいっぱいの目で。 私が目をやった時には、警官がコソコソと柵をこえているところだった。グズグズしていてはつかまってしまう…。彼らに自由をうばわれてしまう…。
必要なのは、捨てる覚悟と少しの勇気 。彼が小さくうなずく。
もうためらっちゃいけない。言葉と共に、今まで聞いた事もないくらい綺麗な声が私の口から漏れた。
「ばいばい……」
…気がつくと、いつの間にかふるえは止まっていた…。
不思議なほど、きれいに心が落ち着いていた。 波のない湖のように…。
「ばいばい…….」
同じように真一がささやいた。 そっと、ふたりの手が離れてゆく…。同時に空に足をふみ出した。 人々の悲鳴と、時が止まったような感覚。 音がなくなり、色がなくなり、そして消えてゆく私の心。 最期に感じたのは、少しのさみしさだった……。
人々の耳に響く嫌な音。はげしく飛び散る赤。恐ろしいほどの夜の静けさ。 後に残されたのは現実を生きる、おびえた人々。 

彼女が残したのは、真一の手の中のかすかなぬくもり…。
逃げるしかなかったの…  十六夜だけが人々を静かに照らす…。


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