言葉ひとつぶん




自称『名教授』の講義だけれど、ちっともおもしろくない。哲学なんて選択するんじゃなかった。大学でも一番広い大講義室の最後列に座りながらぼんやりと教授の言葉に耳を傾けるけれど、私以外の人も多くは真面目に聞いてはいないと思う。
私は机の上に置いた携帯電話のストラップをいじりながら時刻表示の部分に目をやる。あと二分で講義も終わる。隣に座っているユリも、もうノートを鞄にしまいはじめた。
『えー、結局の所ですね。人は言葉というものでお互いを理解し、わかりあえる反面、言葉によって人を騙し続けてきた、つまりは嘘をついてきたという事でありー』
マイクを通す教授の話がまとめの部分にさしかかってくるけれど、もう間に合いそうにもない。ユリが鞄を持って席を立つと、すぐに終了のベルが鳴って、教授も話の途中ながらしぶしぶあきらめてマイクを外す。講義室にざわめきが戻ってくるとユリは私に声をかけてきた。
「ごめん、美穂。今日はちょっと、用事があって一緒にお昼食べられそうにないの」
「あ、どうせまたデートでしょ」
あっさり返すとユリはにやけ顔の口元を片手で押さえながら
「今日は大時計台公園なの」
と口にする。ユリのにやけ顔につられて、私も微笑みながらノートを鞄にしまう。
「ほんと、ごめんね美穂。また電話するから」
「うん。ユリも急がないと」
私の言葉の後に、ユリは「ごめんね」とだけ言って他の生徒達の合間を縫って急いで出て行った。私もユリを見送った後、ひざの上においていたコートを着て、長くなった髪をコートの外に出す。人がだいぶ出て行ってさみしくなった。
大講義室の窓から外を眺めるとまず木々が目につく。大きな窓だからかなり広く見渡せるけど、そのほとんどは冬の寒空の下で震えている緑色ばかりだ。大学の隣に広がるこの公園は、ほとんど林の様になっていて、その中に頭ひとつぶん高くそびえ立つ、白の大きな時計台が色違いでずいぶん目立つ。
それらを横目に鞄を抱えて大講義室を出ようとすると、それを待っていたかの様に携帯が鳴り始める。私がろくに相手の確認もせずに出ると、少し雑音混じりに、男の人のわりに高めの声が聞こえてきた。
『美穂か? 友洋だけど。今、忙しい?』
何の心の準備もなしにこの声を聞くと思わずドキッとする。高校生の時に知りあってから、もう二年にもなるのに未だに飽きない私のばからしさに、自分でもあらためて好きなんだなあと思いながら歩くペースを少し落とす。私は前を見られず、目線を足元にやりながら廊下を歩き続けた。
「ううん、今、『迷教授』の講義が終わったところ。友洋は?」
心を落ち着けようと思って歩くペースを落としたのに、心臓は逆に速くなってくる。私の言葉が届くとすぐに友洋はまた早口で返してくる。
『これからユリと会う約束してるんだけど、来ないんだよ。で、どうしようかと思ってさ』
ーユリと。
その言葉にペースの速かった心臓は痙攣をおこしたかのように、動きを止めてぐっと抑えこまれる。自然と足も止まって、私は通路の窓際に立ちつくしていた。窓ガラスに映った私は眉をひそめていて、まるで餌につられて罠にかかったウサギみたいだ。
「彼女が来ないんなら、本人に電話すればいいのに」
窓ガラスの中の美穂が自分に言うように優しい声でつぶやく。
『それだけじゃないんだよ。時間あったら、ちょっと聞いてくれるか?  最近さ、どうもこう…大事にされてる気がしないっていうか。そんな気がして。あいつに違う男できたのかな?』
半透明の鏡に映った私は相も変わらず助けを求めるような顔をしていて、その鏡の向こうに写る外の景色は相も変わらず冬の風に震える木々ばかりだった。
私はそんな顔をした自分が嫌で、またゆっくりと歩きだす。すれ違う人達は、みんな楽しそうに話していた。
『なあ、美穂。どう思う?』
友洋がさっきの質問の答えを催促する。少なくとも、ユリは二股なんて器用な事のできる子じゃない。
「友洋が考えすぎてるだけ。そんな事で相手を疑ったらかわいそうだよ」
言いおわると私は鞄を肩にかけて、空いた方の手でドアを開ける。この季節独特の冷たい風が私の前髪を乱れさせる。その風に逆らいながら外に出ると、そこは大学構内でもわりと人通りの多い場所なので何人かの友達がたまって話をしていた。けれど、今は携帯が放せないので少し横道にそれて中庭を横切って行く。ずいぶんと長い間があってから、友洋がやっと口を開く。
『たしかに美穂の言う通りかも知れないけどさ、でもオレ不安なんだよ』
「付きあうって、そういう事だと思う」
中庭の真ん中あたりに来た頃、自動販売機を見かけてそこで足を止める。好きと言ってくれないとか、時間通りに来れない事が多いとか。友洋の不安の理由を聞きながら私は肩と頬で携帯をはさんで、財布からお金を出して温かい紅茶を買う。冷たくなった手に温かい缶の紅茶を当てて友洋の声に耳を傾ける。
『ひょっとして、オレ付きあわなかった方が良かったのかな。片思いの方が楽だったのかも』
私は中庭の木の根に鞄を置いて、木々の向こうを手をつないで歩く男女を見ながら言った。
「叶わない片想いなんか辛いだけで救いがないよ?」
『そっか…。付きあってるだけマシなのかな』
友洋は私の言葉をあっさりとそのままの意味で納得する。私がため息ひとつついて庭の木にもたれかかると、携帯の向こうからも自販機でジュースを買った時の、あのガタンという音がかすかに聞こえる。
「どうせ、また紅茶でしょ」
『あ、よくわかったな』
友洋の嬉しそうな声が届く。思わず、私の口元にも微笑みが浮かんだ。友洋が大の紅茶好きな事くらい二年前から知っている。あの時から少しも変わろうとしない。携帯から音が消え、私たちの間に少しの沈黙が訪れる。私は耳から携帯を放して、両手で紅茶と携帯をまとめて持つ。なぜか心はすごく静かになっていた。私の手の中、缶の紅茶にくっついて温まっていた携帯が音を取り戻す。
友洋が缶を捨てた音だろう。私はぬくもった携帯を再び耳にやると、彼の声も同じタイミングで戻ってくる。
『さっきの話の続きになるんだけどさ』
「うん」
私はゆっくりと冬空を背にした枝達を見あげる。雲はゆっくりと冷たい風の中を流れて行く。
『彼女、どうして何も言ってくれないんだろ。オレはいつも何だって言ってるのに。たまに嘘ついてると思う事もあるんだ』
そんな簡単な事で悩んでる友洋らしさが可愛くって私は少し言葉を選んでから口にした。
「言葉ってね。人を傷つける事があるじゃない?  自分の想いと裏腹に。だから臆病になって嘘をつくんだと思う。好きだからこそ言えない言葉ってあると思う」
自分で口にした言葉だけれど最後の一言は胸に重くのしかかってくる。これは別にユリだけに言える事ではないはず。
『でも言わなきゃわかんないと思うけど』
「言わなくてもわかってあげなきゃ」
その言葉には少しの願いも入っていたのかも知れない。言わなくてもわかってほしい、という。私は見上げた枯れ木の枝でふいに関係のない事を思いだす。
これは桜の木だったかも知れない。たしか去年ここで桜の花びらが舞い散るのを見たような気がする。
『でもそれってちょっとワガママじゃないか?』
「ワガママを言い合うのが好きって事じゃないの?  きっと嘘もワガママも避けられないよ」
その言葉に友洋は少し納得のいかない感じで、ゆっくりとした口調で尋ねた。
『嘘とか隠し事とかって、やっぱり美穂もあったりするのか?』
「私は嘘つきだからね」
言ってなぜか笑みが浮かぶ。何かおかしいのか、あるいはあきらめの笑みか。
多分両方だと思う。昨日も今日も一生懸命、嘘をつく。自分に嘘をついて、みんなに隠し事をする。たった、言葉ひとつ。二文字で言えてしまう自分の気持ちを誰にも知られないように、表に出さないように嘘をつく。友洋とユリを傷つけないために。ユリは私の大切な友達だもの。自分の気持ちひとつでユリを苦しめるなんて馬鹿げてる。
ー今日は大時計台公園なの。
あの、ユリの嬉しそうな声とにやけ顔がまだ残ってる。私の気持ちひとつで、それを壊してしまうなんて…。
『あ、やっと来たかな。向こうに見えるの、多分ユリだ』
私には見えないけれど、携帯から友洋の嬉しそうな感じが伝わって来る。私は携帯を持つ手に少しだけ力が入るのを止められない。
『悪いな、なんかいつも相談ばっかりで』
「ううん、気にしなくっていいよ。ユリと仲良くしてね。私、友洋とユリにはずっと一緒にいてほしいから」
見えない友洋の照れ笑いが聞こえる。言いたい、伝えたいといつも胸を抑えつける言葉がひとつ。でもその、言葉ひとつぶんの想いがいつも私を臆病にする。
『今日、本当にありがとうな、美穂』
「うん、またね」
そんな言葉があっさりと口をついて出ていた。私と友洋をつないでいた、たった一本の線は何のためらいもなく、あっさりと切れてしまった。
私は携帯の、切れた後に残るさみしい音を消してポケットにしまう。いつのまにか手の中の紅茶は冷たくなっていた。私はしばらくその冷めた紅茶を眺めていたけれど、ふいにそれを木の根の上に置いて、代わりに自分の鞄を取って肩にかける。もたれかかっていた木を見上げると、枯れた枝は冷たい風に震えているばかりで、まだつぼみは出ていない。
ひょっとしたらずっと出ないのかも知れない。そんな事を思いながら私は風の通る中庭を髪を押さえながら歩き始めた。ふとふり返ると、木々の向こうには、白い大時計台が今日も静かに立っていた。


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