心という小さな部屋で


あの人がいなくなってから、ずっと雨が止まずにいる。今日もガラスを仕切る木の枠に触れると少し湿っていて、窓の向こうはあの日からずっと同じ雨…。
いつまでも、いつまでも降り続くんじゃないかと思えてくる。

私は別にこの雨に止んでほしいとは思えない。いつまでもここにいたい。あの人がいたこの場所に。
外へ出てしまうということはあの人を忘れるということにもなりかねないから。

窓の向こう、ずっと彼方に見える街は今日もにぎやかで、陽が落ちたばかりのこの時間になるといくつもの星が灯りはじめる。
みんなはきっと今日も笑顔で夜の街を歩き、いくつものカードを持って、それを増やし、あるいは失っていく。
私のカードもまだ残ってはいる。窓辺から離れた所にある、古い樫の机の上に散らばる、元は五十四枚のカード。二枚のジョーカーは子供の頃に消えてしまった。ハートのエースはあなたがいなくなると同時になくなってしまった。
もうこれらに触れる気にはならない。例え誰と会うことがなくなっても、その方がいい…。
あなたがエースだった事に、いなくなってから初めて気がついた。私はあなたを通じてしか誰ともふれあうことが出来なくって、もう今となっては一人で何もできない。
このカードもいつまでもこのままだろう。そしていつか、少しずつ消えていく。
机の向こうにはずっと閉じたままのドアがある。自分で内側から鍵を閉めてから、もう一度も開けてはいない。
あなたがいる間は、いつも開けっ放しだったドア。いつでも入ってきてほしかったし、いつ見られてもよかった。普通の人ならここまでは出来ないだろうけど、私はこの部屋を見られることに抵抗はなかった。この部屋を閉じてしまうまでは。

部屋の隅、ほとんど本の入っていない本棚の上にある砂時計が最後の砂を急ぐように落としてしまった。ガラスのくびれの部分からいくつかの粒がぱらぱらとおくれながらに落ちていく。それは上のガラスが空になると、ひとりでに反転し、また新たに時間を刻みはじめる。またそんな時間が経ってしまった。
いつまでも見つめる私を無視して、砂だけは流れ、落ちて、流れていく。

雨で少し湿り気味の床の上には綺麗な色をした砂が散らばっている。砂時計が割れて中の砂がはじけ飛んだように、ばらけた砂が微かに入り込む月の光をいくつもの色で跳ね返す。
その中に立つ机の上に散らばったカードのひとつが風のない部屋で、そう、ゆっくりと、揺れながらその砂粒の上に落ちる。
クローバ。
それは床に落ちると、砂に触れた部分から音もなく風化して、とても綺麗な青い砂へと変わってゆく。
私はまた大切なものを失ってしまった。ダイヤはいつでも手に入る。どこにでも売っているのだから。スペードはない方がいい。剣の姿をしたあのカードは私も、あなたも、誰をも傷つける。
ハートはあなたと一緒になくしてしまった。
クローバは平和の証。ハートの次に大切なものも、こうしてこの部屋にいる限りは消えていく。床に散らばった色とりどりの砂達は大切なものの名残。この砂も時計に入れてしまえば、文字どおり、時間が増えてくれるのだろうけど、私にはそこまで残酷なことは出来ない。

この静かな部屋の砂は風がないせいで、少しも揺れることはない。ただ雨音が入り込んでくるだけ。まるで波のない海のよう。波がない代わりに打ち上げるものもない。別に私はそれでもかまわない。

再び窓の傍へと行くと、夜はずいぶんとふけていて、そろそろ街の星々も眠りについて、わずかに灯が揺れる程度になっていた。けれど私はまだ眠りたいとは思えなかった。もうどれくらい眠っていないかも覚えていない。ここにいる限り、時間は関係なく、眠気も疲れも何もない。いつまでも私はこのままで止まっているのだろう。

足下の砂はまばらだけど、さっきのカードの消えたところは今までたくさんのカードが消えてきたせいか、そこだけは色様々な砂浜になっていた。
私は何ともなく、その横に座り、近くにあった低めのベッドにもたれかかった。その色はまるで波のない海に浮かぶ小さな島。誰もいない海辺がそこにだけ現れているようだった。
私はその砂浜に指を伸ばすと粉のような光が飛び散る。かつて別のものだったその粉はふわふわと舞った後、かすかに私の髪に降る。それを感じながら、私は触れたままの砂浜にそっといくつかの文字を書きはじめる。
指が止まると、私は自分で書いておきながら、その言葉に深く心を眠らされた。

もう 戻せない

ずっと静かだったこの部屋に、微かな音がしてふいに目を覚ます。どのくらいこうしていたのだろう。砂時計はまた反転して違う色の砂を落としている。窓の外を見て、もうすぐ夜が明けるくらいの時間だと、何気なく思う。

窓から目を離すと、ドアの下に何かがあることに気づく。木のドアの下、床との隙間から一枚の手紙が差し込まれていた。
さっきの音はあれだろうか。
長い間ずっと同じ姿勢でいた重い身体を起こして、窓から入る光を返す砂の水面を歩いていく。ドアの前で腰をかがめてその手紙を取ってみると、それには差出人も日付も書いてはいなかった。ただ真っ白な面と、その裏に数行のメッセージ。
私は、そのたった数行の言葉達になぜか動くことも忘れ、何度も何度も読み返した。

また 会えませんか

その最後の一行が心の外殻を飛び越えて私の内側にそっと引っかかったような気がして、かがみ込んだまま動けなかった。
誰からかはわからないけど、それはとても大切な人のように思えた。手紙を通して久々に何かを感じている自分がわかる。いつまでも変わることなく、感じることも忘れていたのに。

そっと、砂の文字に目をやる。「もう戻せない」と思っていたのは自分の方なのかも知れない。失ったと思っていたのは、カードを消してしまっていたのは私なんだろうか…?
沈みかけた月の光が真横から少し入ってきて眩しい。それは微かに床の砂を輝かせる。
まだ…失っていないのかも知れない。あなたのにおいの残るこの部屋に、いつか違う空気が入り始めたような気がした。それはずっと思いこんでいたような、恐ろしいようなものではなかった。少なくとも今は。
あれほどあのドアを開けることを拒み続けた私がこうして、鏡のないこの部屋で自分を見つめている。そのガラスの向こう側に見える月と同じように。

あなたがいないと何もできない私はただひたすらに待ち続けた。でも、今ふいに思う。
本当にあなたのせいだったのだろうか…?
窓からの光で紫色に染まったこの部屋の中、固く閉じたドアが光でその色を変えていた。
ずっと触れていなかったせいか、その取っ手は少し錆がかかっていた。しかし、私がそっと触れてみると、それは息を吹き返したようにその色を鮮やかに取り戻しはじめた。
自分の手が少しためらっているのがわかる。けれど、左手に持った手紙がそれを許してくれていた。
私はゆっくりと、そのドアを開いた。すると、待っていたかのように、そこから暖かい空気がこの部屋へと入り込み、外のにおいを微かに漂わせた。
とても暖かい空気だった。中にいる間、あれほど怖くて仕方のなかった外の空気が今、私を通り抜けていく。
このドアを開けるまで、この空気に触れるまで、私は自分のいた部屋がとても寒いところだったという事にすら気づいてはいなかった。
不思議と後悔はなかった。これなら外へ出られるかも知れない。今ならそう思える。
ぎゅっとその取っ手をつかんでふと振り向くと、さっきの砂の文字は暖かい空気に流されて消えていた。そして、散らばった色とりどりの砂粒の中に、消えたはずのクローバが姿を現していた。
その上の窓から外を眺めると、いつか雨は止んでいた。

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