青い薔薇




奈緒は、雨の音で目を覚ました。それは夏の日の朝だった。
暗い部屋は窓際からぼんやりとした青に染まり、雨音がその窓を泣かせていた。彼女はベッドからゆっくりと体を起こすと、夏にも関わらず少し肌寒さを感じた。それは雨のせいだけではなかった。
彼女の隣では男が寝息を立てていた。男は夢の中でシーツを手繰り寄せ、寝返りを打つ。その姿と自分の姿を見比べて初めて、今が昨日の続きなのだと、知った。
奈緒は小さく息を吐くと、シーツから抜け出し自分の服に袖を通す。室内で着るには熱いカーディガンのみ椅子にかけ、自分の髪を手探りで梳く。見えない髪をイメージしながら指を通す。その合間に彼女の目に留まったのは、窓に映る緑の塊だった。奈緒は不思議に思い、ベッドに膝を乗せ、枕の奥の窓をそっと開いた。
すると、そこには小さな植木鉢とその上に生きる紫の花が立っていた。台風の横殴りの雨に叩かれながら、その体をしっかりと支えていた。
鏡もない男の部屋のベランダに、花があるとは思いもしなかった。奈緒は思わず寝顔の彼とその花を見比べた。が、その目はすぐさま不機嫌なそれへと変わった。この台風の中にたった一人放っておく神経が信じられなかったのだ。
奈緒は降り込む雨に逆らい、その鉢を抱き上げた。そして、滴る雫を余所にキッチンへと駆けた。鉢を排水溝の傍に下ろしてやると、花はその濡れた体から汗を落とした。ベッドの横からキッチンまで目印のように雫が跡をつけていた。しかし、その跡の先にいる男は、隣で走られても全く眠りから出ようという気配はない。
彼女にしても、男を起こそうという気が起きなかった。二人はすでに何度かの夜を一緒に過ごした、だからこそ、時期は短くとも大切に思うものである。しかし彼女は数ヶ月付き合った男よりも、初対面の花の方に気をかけた。
それは男が大切ではないのか、それとも花が大切だったのか。いずれにしても、彼女が彼を起こす事はなかった。
奈緒はメイクを済ませると、彼をそのままに、一人部屋を後にした。

アパートを出ると、もう道には出勤の人々の流れが出来始めていた。奈緒は傘を広げるとそれに加わり、駅へと向かい坂を下る。太陽が姿を見せないが、コンクリートは昨日の暑さを忘れられないように熱を放つ。蒸し暑さの籠もる傘の下、彼女は前を歩く女性を見つめた。20代、社会人に成り立てだろうか。自分がもし大学院ではなく、この人と同じ道を選んでいれば、今頃は提案書の一つでも書いていただろうか。
彼女が朝を嫌う理由はここにあった。
大学へ向かう道、どんな道を選ぼうとスーツの人々を目にする事になる。その度に、後ろめたい気持ちが彼女を襲う。働きもせず、さして成果も出ない研究ばかりを続けている。そうして毎朝焦らされるのだ。成果を出さなければならない、と。
奈緒は傘を少し下げると、足を速めて彼女を抜いた。

奈緒が大学の正門を通る頃には雨も小降りになっていた。木々が時折大きな粒を落とし、傘の上で大きな音を立てる。
彼女は研究室に向かわず、直接校舎裏へと向かった。その川沿いにある敷地の大部分は農学部の敷地となっている。道沿いの草々が手を伸ばし彼女に触れようとする。背の高い草達は道の上で手を取り合った。それらをくぐる形で手を雫で濡らしながら、草のアーチを抜けた。
木々の傘が終わると、そこは雨の中に広がる青い庭だった。青い太陽が、庭を取り囲む木々達を染める。彼女は濡れた草の上を進み、狭い海のような庭へと入った。海の底では、辺りの木々とは違う、正しく並んだ花達が彼女を待っていた。
奈央はその前にかがむと、傘を傾け彼らの上にかぶせた。青い光が途切れ、そこに決して彼女の思うように咲かない薔薇達が現れた。自然のままの緑を観察すると彼女は小さくため息をつき、再び自分に傘を戻す。海の底にしか咲かないだろう薔薇達が再び姿を見せた。彼女はゆっくりと離れると、傍に見えるプレハブへと向かった。
ここは彼女のもう一つの研究室であった。花を研究するためには学内の一室よりもこの別館の方がより花に近く都合が良い。彼女が傘を畳みプラスチックの扉を開くと、中にはすでに他の研究生が集まっていた。
「青い薔薇、咲いてました?」
入り口の一番近くに座っていた学部生が尋ねる。彼女は長い髪を全て後ろでまとめ、手の中の鉢にかからないようにしていた。奈緒は軽く首を振ると、近くにあった実験用の綿で手の雫を拭った。
「すぐには無理よ」
そう言って笑いながら乾いた軽く手を振る。しかし窓から横目で青い庭を見た彼女の目は、その軽い笑顔とは違った。職人が自らの作品を睨む時の、何も疑っていないそれがあった。
女がそのような目を見せると、ある種の男はそれにひどく惹き付けられる事がある。研究室にいる男の幾人かはその種であった。雅俊もややその分類の中に入る。
彼は自分の試験管をスタンドに立てると、彼女の隣から窓の奥を覗いた。彼はあえて何も話はしなかった。二人で無言のまま青を眺める奇妙な状態に、先に痺れを切らしたのは奈緒の方だった。
「光を当てるだけで効果あるかしら」
「ないと思っていたら、やらないだろう?」
確かに彼の言う通りだった。間に合わせとは言え、ずいぶん矛盾した事を言う自分を鼻で笑う。成功すると思っている。だからこそ教授に掛け合ってまで青い光を置かせたのではないか。
「本当にそうね」
こうしていつも同じ窓から自らの研究を再確認する。そうしなければ、いつか自分の研究を諦めてしまいそうになるのだ。それは何も彼女独特の事ではない。研究という物は元来、一人で続ける積み木のような物だ。一人で器具や理論と向き合っていると、人はふとしたきっかけで自分を疑ってしまう。特に友人や家族の中に成功者がいる場合はなおさらである。それに耐え切れる者は生まれつきの研究者と言えるし、ある意味では普通の幸せなどに縁のない人種だと奈緒は考えている。
こうしてお互いに研究を知り合う事。それが自分を奮い立たせる素になる。だからこそこの研究室は居心地が良いと彼女は心底思う。
雅俊に対して女として思う所はなくとも、同じ研究室にいる人間として、奈緒は彼を一番大切に思っている。それは、研究に向き合う時、誰もが必要とする「理解出来る人間」であったからだ。
彼女は雅俊の机の上を眺め、昨日との違いを探す。それが彼女の密かな楽しみの一つでもあった。雅俊の机には、彼女の期待に応えるように、必ず何かしらの進展が置かれていた。この日彼女が見つけたのは、乾いた土の詰められたガラスコップだった。
奈緒が彼の方を振り向きながら指差すと、雅俊は作り笑いではなく、自分のために頬を緩めた。
「試作だよ」
「完成したんだ」
「芽が出れば、ね」
彼は、栄養の少ない土地で木を成長させる研究をしていた。今まで何度も芽を出す事なく枯れていった種を知っている分、奈緒はその手の中に納まるグラスが愛しく思えた。
友の夢。それは誰もが叶ってほしいと願う瞬間でもある。しかし奈緒には、愛しさの裏側で、そのグラスがひどく冷たく感じられた。
−おそらく、彼の夢は叶わない−
心の中でそう断言してしまう。敵意があるのではなく、純粋にそう思うのだ。彼女から見て、雅俊は気を遣いすぎていた。こうして笑っている表情には、とても成功のために誰かに勝とうという思惑は見えない。
研究と、人。
どちらも同じように愛する彼が成功者になるとはどうしても思えなかったのだ。
そんな自分を嫌になる事がある。特に雅俊に見られている時には。彼女はグラスをその場に置く事で、その目から逃げ出した。
彼は席に腰を下ろすと、その手にグラスを取り、自分の研究の中へとすっかり入っていった。しかしそれとは対照的に、彼女は研究の世界へ入りきる事が出来なかった。茎の色をじっと眺めても、どうしてもその焦点が合わない。それは、彼への後ろめたさがつっかえているのか、それとも連日の疲れからか。
数時間の彼女の研究は、遅々としてほとんど進展がなかった。焦りが研究の邪魔をし、そして更に焦りを生む悪循環が始まっていた。
机の上では何も生まれない。奈緒の心がそう呟くと、体が動くのは早かった。
「外にいるね」
そう言うと、カッターと軍手を手に席を立った。
「もうすぐ皆で休憩に行くけど、呼ぼうか?」
雅俊が手を止めて振り返った。
「いい。皆で行って」
そう言い残し、急ぐように研究室を後にした。
彼女が残した言葉。これは「冷たい」だろうか?
人によっては、そう思うだろう。事実、研究室の何人かはそう思っている。しかし、それは奈緒にはあまり関係のない事だった。雅俊に対する考えでもそうだが、彼女にとっては研究を急ぐ方が大きい。自分が焦っている時に誰かに付き合う程の余裕はなかった。
研究室の外に一歩出ると、雲の中の太陽に代わりポール上に座った青いライトが辺り一面を海に変えていた。彼女はその中にかがむと、辺りの薔薇達を一通り見回した。
雨に揺れる彼らは一見青く見えるが、光を消してやれば、地に咲く赤に戻るだろう。どれもこの作り出した海の中だからこそ染まっているだけだ。
自然に咲く青い薔薇。彼女は何としてもそれを咲かせようと、もう2年以上研究を続けてきた。院生最後の年、すぐ先に見え始めたタイムリミットが彼女に焦りを注ぐ。
青い薔薇は幸福の証。聖書にまで載ったこの花を咲かせる事はノーベル賞にも繋がると言われている。奈緒がこれを選んだのは、キリスト教だったからでも、ノーベルを狙ったからでもない。
「成功」という二文字。単にこれがほしかったのだ。それ以上、足す物も引く物もない。
彼女はひどく成功にこだわった。それは彼女の母親と同じだった。今は離れ、山形に住んでいる母は、昔から奈緒に対し厳しい言葉を持った人間であった。彼女がまだ高校生の頃、二人の兄は母の望み通り、すでに名のある大学で成果を上げ始めていた。暗に同じ道を求められていると感じた奈緒が、初めてその道に反対し、予備校へ行かなかった日。母は極めて不快な表情で彼女に叫んだ。
「何がしたいわけ?」
と、ただ一言。彼女は答えるだけの理由を持っていなかった。あまりに漠然としていたのだ。母の願望を押しのけるだけの夢や情熱、具体的な道、そういったものを見つけられなかった。ただ、漠然と
「私はお兄ちゃん達にはなれない」
としか言えなかった。その時の母は、彼女の言葉をどのように捉えたのか。今となってはわからない。だが確かに言えるのは、母と娘が一度こじれ始めると、どちらも後ろへ引く術を持たないという事だ。奈緒は、その日「東京へ出たい」と漏らした。それは、兄達と同じ道を行っても所詮同じ結果は出せない、母の願いも叶えられない、そこから出た「東京」という言葉だった。何かの当てがあった訳ではない。ただこの場所を離れる事で何か変われる。その象徴に近い単語だった。母は、そんな奈緒の甘い考えを一蹴した。
「東京へ出て何が出来るの」
彼女は、ただ黙って母の唇を見ていた。
「そんな事じゃー」
母の唇から音が消えた。音に続いて母が消えると、奈緒の前には青く染まった薔薇が一輪、雨に耐え忍んでいた。
「成功できないわよ…」
彼女は途切れたその先を、一人呟いた。彼女を救うはずの薔薇達は決して慰めの言葉をかけなかった。彼らが日の光の下でも青く咲けるまでは、家族の元へ帰れない。奈緒の中ではすでに「家族」と「成功」というイメージが互いに根を張り合って繋がっていた。それを解くために薔薇を前にする。
彼女は今日もカッターを手にその細い茎へ傷を入れた。蒸し暑さでぼんやりする頭を他所に、ルーペを通して中を覗くとそこには確かに青い血が通っていた。地に通わせた海の色が、彼らの根を通して確実に吸い上げられている。
上手くいっている。そう思いカッターの刃を引くと、細く伸びた指先に痛みが走った。刃が彼女の人差し指をかすめていた。眉を寄せながら傷口を口で吸い、湿った人差し指に目を落とす。
血が出ていた。
その血は、赤ではなかった。
青い。
彼女が息を呑んで思わず薔薇を見やると、茎の傷口が赤になっていた。
彼女は跳び退くようにその場に立ち上がった。蒸し暑さとは逆に、頭の奥だけがひどく冷え込んでいくようだった。
雨風に揺られ、辺りの薔薇達が一斉に揺れ始めた。その声は不器用に、ノイズのように耳で震える。まるで彼女を責めるかのように取り囲んだ薔薇達が揺れた。
奈緒はその光景に弾き出されるように、駆け出した。傘もカッターもその場に捨て、全力で雨の中、研究室へと逃げ込んだ。ドアを閉めた大きな音と白い光が、彼女に小さな安堵を与えた。静かな研究室の中には、彼女の吐息と、外から叩く雨の音しか聞こえなかった。塞ぐようにドアに手をつき、ゆっくりと息を整える。前髪から雨の雫が落ちた。自分の息の暖かさが初めて冷えた心臓を静めてくれた。
−疲れているのかも知れない−
言い聞かせるように弱気な言葉が漏れた。
誰もいない研究室。その静けさをふいに破る音があった。彼女の鞄の中から漏れる携帯の着信音だった。そっと近寄り、取り出してみる。そこには今朝黙って別れたばかりの彼の名があった。
少なくとも、良い予感などなかった。しかし、今に限って言えば、彼女はどんな声でも耳にしたかった。そうして忘れたかった、目の前で起きた出来事を。
通話ボタンに指が伸びた。救いを求める指だった。しかし耳に当てた直後、そこから通う声は救いにはならないと知った。
「なんで起こさないんだよ」
彼の第一声だった。彼女には、それに応えるだけの気力がすでになかった。何の言葉も生まれては来ず、ただ花の声を聞かないよう電話から届く空気の音に集中した。
「どこにいるんだよ?」
「研究室」
「お前…、研究室へ行くためだけに、俺を起こしもせずに出たのかよ?」
無言で首を小さく縦に振った。それは、彼に通じたのだろうか。しかし、二人の間から言葉が消えた事で、それは嫌な意味で伝わっていた事がわかった。
彼の語気が、少し弱まった。親が子にかけるような柔らかさではなく、見知らぬ者に出会った時の、探るような弱い声だった。
「何を焦ってるんだ?」
恋人を起こしもせず、書き置きもせず、研究室へ向かう。それは普通に考えれば「焦っている」ように見えるだろう。事実、彼女もそれに気づいている。自分が明らかに焦っている事、それが研究だけに収まっていないという事に。
「一度、会って話さないか?」
「無理だよ」
反射的に言葉が出ていた。彼はおそらく、まだ彼女の焦りが成功に向いているとは知らない。ただ漠然と、一時的に焦っているだけだと思っているだろう。奈緒自身も自分の望みを語ってはいない。語れば、決断を迫られるかも知れない。女が一人で成功を収めるなど認められない男が多い。その時、研究と彼を秤に掛けられるかも知れない。そうなれば、どちらを選ぶか、いや、選ばざるを得ないかを彼女はわかっている。
だからこそ彼女は黙り続けた。「大人しい恋人」でなければならないのだ。自分自身の望む物を語るにはあまりにも早すぎるのだ。
そんな思いが、彼の追及に止めを刺した。
「今日から実家へ帰るから。しばらくは、戻れないよ」
その予定は、今この場で作られた。彼にはどうしようもない壁を置いてしまった以上、もうこの会話が続くはずなどなかった。彼は電話を切らざるを得なくなり、彼女はその後の静けさに向き合わなければならなくなった。小さなため息の音が部屋に響く。なぜ研究を成功させたいだけでここまでしなければならないのか。そんな恨みも込めて携帯を鞄に投げ落とし、窓の奥を眺めた。外の青い庭では、まだ薔薇達が雨に耐えている。彼女には、どうしてもその中へと戻る事が怖く感じられた。
「疲れてるのかな…」
自分に尋ねる。研究室にはいられない。彼の所へも向かえない。自然、距離を取るためだけに出た「実家」という選択肢が、急に現実味を帯び始める。しかし彼女はすぐに里帰りを決断する事は出来なかった。自分はまだ何も残せていない。そのまま帰って両親に何を話せるだろうか。実家にいた頃の自分が、彼女の中で明日の自分と重なった。
「どうしよう…」
壁に背を合わせる。もう見飽きる程に見慣れた部屋。いつも一緒にいる恋人達が倦怠期に陥るように、彼女はこの部屋で多くの時間を費やしすぎていた。今ここに残る事が何かの成果に繋がるとは考えにくかった。彼女の中で実家への抵抗が消えた訳ではない。しかし、他に選択肢がないというのが今ある現実だった。
「帰ろう、かな…」
そう呟くと、彼女はゆっくりと壁から背を離し、床の鞄に手を伸ばした。

その日、東京の雨は奈緒が新幹線に乗る頃になって止み始めた。埼玉を過ぎる頃になると雨はすっかり上がり、街の灯りを映した雨粒が窓から徐々に弾き飛ばされていった。彼女は水面のような光を眺めながら指を折って数え始めた。もうかれこれ、実家に帰らなくなってから三年以上が過ぎていた。両親への意識が見て取れる数字でもある。奈緒は長い車内の間でも、残してきた薔薇の事を考えていた。どうすれば上手く行くのか。車内で出る答えではないにせよ、それ以外にするべき物などなかった。
電車が山形駅で止まり、奈緒が鞄を手にホームへと降り立つと、まるで全く違う駅で降りてしまったかのような感覚に襲われた。窓から見える街はさほど変わっていない。地元へ向かう電車も、そこから見える風景も、数年前に見ていた頃からあまり変わってはいない。にも関わらず、その感覚は実家へ近づく毎に逆に強まっていった。陽が沈み、心もとない程の弱い街灯の元を歩いた。実家の前に着いた頃には、すでに夕食の時間を過ぎようとしていた。
使わないままの錆付いてしまった鍵を差込み、戸を引く。懐かしい音が、さほど古くはない記憶を思い起こさせる。いつも居間で彼女を横目に見ただけの母。あの姿が今もそこにあるのだろうか。彼女は靴を脱ぎ、木の廊下へと上がった。東京にはない木の香りが微かに漂う。当たり前だった物が、今やそうではなくなっていた。彼女が、どこか変わったその空気を見回していると、いつも黙っていた居間から急に足音がやって来た。廊下に姿を見せたのは、いつも動かなかった母だった。
「奈緒、おかえり、遅かったじゃないの」
初めて出迎えを受けた奈緒は、目の前にいるのが本当に母なのか、それすら疑わしく思った。母は急ぐように奈緒の手を取ると、その手と彼女の顔を交互に見合わせ、笑顔を漏らした。
「ささ、座って。お茶を入れるから少し待って頂戴」
まるで客人を迎えるような扱いに、彼女はいささか戸惑いを感じずにはいられなかった。出されたお茶に口を付けながら、早口言葉のように出てくる母の質問に一つずつ答えていくだけだった。
まだこの家にいた頃は、むしろ奈緒の方が話しかけ、母はそれに少ない言葉で応えるだけだった。
何がこのように母を変えさせたのか。奈緒はそれがわからないまま部屋を見回した。ふと、彼女の目が食器棚で止まった。
「兄さん達は?」
彼女の質問に、母も同じ場所へと目をやった。そこには母と父の茶碗しか置いてはいなかった。
「出て行ったわ」
「出たって、…どこへ?」
「恵一は仕事を転々としてるそうよ。信吾の方は会社を辞めたと言ってきり、どこにいるのか…」
母は湯飲みを口にし、皺の入った唇に指を当てた。小さく首を振りながら細くなった目で奈緒を見つめた。
「ずっと連絡がないから、貴方までどこかへ行ってしまったかと思ったわ」
「ごめんなさい」
「いいのよ。こうしてここにいるじゃないの」
擦れた声でそう言うと、再び湯気を上げる湯飲みを喉に通した。細くなった髪が、ぱらりと目の上に垂れた。奈緒も同じように湯飲みに口をつけた。飲み終わった後に吐いた穏やかなため息が、ひどくその年齢を感じさせた。


その翌日。奈緒は一人家を出ると、すぐ裏から伸びる山道を歩いた。車一台のやっと通れるコンクリート道をしばらく上って行くと、ガードレールの下に彼女の実家が見下ろせた。
彼女は濡れたガードレールに手を置いてしばらくそれを眺めていた。昨日東京で降っていたのと同じ雨が、夜中にここを通ったのだろうか。東京にはない濡れた葉の香りが辺りに漂う。
ほんの数年前まではこれが当たり前で、毎日この道を通っていたのだ。それがほんの少し間を開けるだけで、感覚までずいぶんと様変わりしてしまった。
母は老いた。あの攻撃的な程の「成功」への熱心さも、兄達のプライドも、そして彼女自身の疎ましさも。何もかもがこの数年で消えてしまっていた。
あの家に残ったのは、小さくなった母と、年を重ねた家だけだった。彼女にとっては、今の実家には不思議な落ち着きが生まれ始めていた。しかし、同じくして、東京から見ていた時のイメージが消え始めていた。
−活躍する兄達、それを褒める母、疎まれる自分、「成功」する事で、認められたい−
焦りを生んでいた物が、ここには残っていなかった。
彼女はそっと手を離し、見下ろす景色から離れた。傘のように覆いかかる木々が雫を一つ落とした。彼女の頬を冷やし、伝って降り、顎から服の上へと落ちる。それは彼らの呼び声のように、彼女を木々へと惹き付けた。道沿いに集まった木々達の手が彼女を誘っているようだった。行くべき道を失ったかのように、引かれるまま、誘われるままに彼らの元へと足が寄った。コンクリートと林の境界線をまたぐと、そこからは違う国のように、空気の温度までが変わった。
雨の名残か、彼らの汗か、ひどく冷えた水が辺りに浮いていた。日々研究で花や木々に囲まれているにも関わらず、それらは、まるで違う生き物のような振る舞いを見せる。
東京に住む木々と、ここに生まれ育った木々。同じはずが、同じではなかった。彼らは、呼吸をしている。彼女は、そっとその手を彼の肌に当てた。冷たく、柔らかい。そして、生かされているのではなく、自分で生きている。
東京で青い水を飲まされている薔薇達はどうだろうか。あの子達は、自分で生きてはいない。生かされている。そして、そうしているのは誰でもない、自分自身なのだ。
彼女は、呆然とその高い背を見上げ、濡れた葉の上に座り込んだ。
母は老い、比べる相手ももういない。「成功」を求める必要もない。本当は、ずっと前からそうだったのに、自分が帰らなかっただけで、何年も無駄に走り続けていたのだ。その道で、薔薇達を痛めていたのだ。
「何を…」
彼女は、祈るようにその幹を見上げた。
「していたんだろ…」
答えは何も降っては来なかった。代わりに雫が再び落ちた。彼女の額から、鼻の横を通り、頬へと出た。

日が沈む頃、彼女が実家へ戻ると母はすでに米を研ぎ始めていた。もう少し待ってねという言葉に申し訳なさを感じながら、彼女は今から東京へ帰ると切り出した。
「どうしてよ? 休みなんでしょ? ゆっくりしていきなさいよ」
奈緒は小さく首を振り、夕食を作る母の手を止めた。
「ごめんなさい。今日中に帰らないといけないの」
「そんなに焦る事ないでしょう?」
彼女は笑顔で頷いた。
「もう焦ってない。ただ、研究を終わりにしようと思うの。全部片付いたら、またこっちに帰ってくるから。その時は、もっと長くいられると思う」
研究を終わりにする。彼女が突然口にした言葉に、母は当然戸惑ったが、奈緒はあえて多くを語らなかった。次にここへ帰る時は、何の焦りもなく、ゆっくりと本音で話が出来る。その時ゆっくり話そう。そんな自信があったからこそ、今は何も話さなかった。
実家の玄関を出る時まで母は長居するよう勧めたが、奈緒は聞かなかった。それは意地ではなく、何度も笑顔でなだめながらの事だった。
彼女の中で一つの物が終わろうとしていた。もはや彼女を成功へと生き急がせる物はどこにもなく、これ以上不自然に花を青く染める必要もなくなったのである。確かに、この研究に費やした数年という時間は無駄になるかも知れない。それでも、その後の生き方自体が変わった方が大きかった。
彼女は、東京へ向かう新幹線の中で初めて二時間もの間、誰とどこへ出掛けようかなどと考えた。いつも時間があれば読んでいた、教授の研究論文も実家に捨てて来た。
「成功」という二文字に捕らわれる必要はなくなった。今まで犠牲にしてきた恋人との時間も、友人との時間も、これから少しずつ取り戻せばいい。その二時間は、奈緒にとって初めて柵の外へと出た時間であった。心が軽くなったせいか、眠りと目覚めの間を浮き沈みし気がつけばもう東京駅のすぐ手前にまで来ていた。
今日の内に全て済ませてしまおう。すぐに母親の所へ帰ってあげたい。そう考えた彼女は、そのまま在来線へと乗り継ぎ、大学の研究室へと向かった。もう日はとうに落ち、大学前に着いた時には終電近い時間にまでなっていた。数時間で終わるものではないが、どのみち夏期休暇中である。朝まで人は来ない。一晩かけて研究内容も全て教授へ返す準備をし、明日の朝から変わればいい。
奈緒は、いつも通る河川敷の草の道を通り、研究室の入り口に荷物を置いた。机の上にある書類は全てそのまま教授に返すため、特にいじる必要はなかった。問題は外の薔薇達だった。彼女がいない間も青い光はそこにあり、薔薇達だけが暗い河川敷の中で浮かび上がっていた。
誰かが研究内容を継ぐならばともかく、薔薇を扱う人間が彼女しかいない以上、研究もしないまま場所だけを使う事は許されない。彼女はどこか違う場所へ寄付するという形で薔薇を生かしてもらおうと考え、軍手とスコップを手に、青い光の中へと入った。足元の薔薇達は、この闇夜の青い太陽の中でもどこか赤みを残している。あくまで彼らは彼らの生まれた色を捨てたくはないのだ。
奈緒も今ならばその気持ちがわかる。だからこそ、どこかで生きてほしいのだ。青く染まったスコップを薔薇の周りに挿し込み、根ごと移すために堀を作り始めた。
ひとまず花の周りを一周掘り、移すための鉢を取ろうと手を伸ばした時だった。無数にある青く染まった薔薇達の中に、ひときわ青い花が一輪だけ目に止まった。
彼女は手を止めた。しばらく見つめた後、ゆっくりと立ち上がり腰を曲げたままでじっと青の中を見通した。確かに、一輪だけ妙に青い。不安があった。彼女の中に嫌な予感があった。
スコップと軍手をその場に置き、薔薇達を踏まないようにその子の前にまで足を運ぶ。そして彼女がその一輪に手をかざした。青い光が途切れる。
途切れた。その薔薇が彼女の手の影に入った。しかし、その花は、青い色を消しはしなかった。
それは、確かに青だった。他の薔薇が持つような赤みを持ってはいなかった。一体、何度確認しただろうか。彼女が幾度となく見ようとも、それはいつも同じ色をしていた。
彼女はすぐに信じる事が出来なかった。しかしこれこそが数年間研究の中で常に求めていた結果だった。奈緒はその花が確かに青いと確信した時、笑顔がこぼれた。そして、それはすぐに消えた。
彼女は、望まない研究を終わらせるために戻ってきたのだ。
望まない成功を押し付けられる事もない。誰かと競争する必要もない。焦り、生き急ぐ事を忘れ、普通にどこかへ出掛ける。そんな当たり前を取り返すために戻って来た。
今、彼女の前にいる薔薇は、それを全て壊しうる物だった。青い薔薇の成功は非常に大きな成果となる。聖書にも登場する薔薇であるため、学問的よりも宗教的に意義深い。この薔薇が外に出る事は即ち、彼女を主発見者とし、世界で量産されるという意味であった。
奈緒は、そのたった一つしかない薔薇を手で囲った。そうして遠くの光源から一輪の子を守った。今まで、自分が浴びていても辛いような光を昼夜問わず浴び、青い水まで飲まされ、そうしてやっと咲いて来たのだ。その子を世間に出せば、彼女は成功者として研究の世界で大きな名を残す事になるだろう。それが例え一時望まない成功であったとしても。
同時に。それはもう一つ別の結果ももたらす。彼女とその子の周りに咲いている赤い薔薇達。自然なまま生まれる事の出来た幸せな子達。彼らが今後、青くなるためにこの子以上に厳しい環境で染められるのだ。
この薔薇を外に出すとは、必要なくなった成功と赤い薔薇達の不幸。それだけの結果をもたらす。
この薔薇を、ここで切ってしまえばどうだろうか。彼女はまずそれを考えた。しかし、それは自分が青い光や水で痛めつけたにも関わらず強く生まれてきたこの子を、この手で殺してしまうという事だ。自分の勝手で生んでしまった子を。
奈緒は、その場に座り込んだ。静かに、しかし内には激しく、その薔薇だけを見つめた。
母なら、どうするだろう。彼女はそんな事を考えた。おそらく、昔の母であれば迷わずに発表しただろう。そして今の母ならば、きっと切ってしまうだろう。昔と今を比べるのであれば、奈緒にとっても同じだった。
彼女は、両手で顔を覆った。青が消え、一面の黒が広がった。決して消えきってはいない自分がいた。そして、新たに生まれてきた自分もいた。
どちらも自分でしかありえない。どちらを選ぼうとも、自分しか責任を取れはしないのだ。
「お母さん…」
覆った手の中で小さな声が漏れた。声がもはや消えそうな程に小さくなっていった。彼女は、傍から見れば眠ってしまったかと思う程に動かなかった。その体の中で、変わりきれない自分と生まれつつある自分が背を向け合っていた。彼女にとって、どちらも選ぶ事など出来ない。
選ぶ。それは捨てる事。奈緒がどんな結果を選ぼうとも、一つが残り、一つは消えた。
夜はそんな彼女には容赦なく時間を刻んだ。彼女が何もかも捨てて逃げ出したいという気持ちと闘う間にも夜は更け、そして深夜を過ぎ去った。
夏の朝は早い。朝になれば、彼女が動かずとも誰かがやって来て、彼女とその薔薇を見つけるだろう。そうなれば道は一つに決まる。彼女に選ぶ自由の与えられたリミットは夜明けまでと言えた。
そして、その時間は近くにまで来ていた。
青い光に包まれ、両手で顔を覆った彼女に夜明けがわかったとは考えにくい。しかし、彼女がその手を離した時、それはちょうど東の空がうっすらと紫から黄色へと変わり始めた頃だった。
黄色く照らされた彼女の目は赤く、ひどく腫れ上がっていた。重い瞼をゆっくりと上げ、彼女の横に咲く花を見下ろした。
「ごめんね」
彼女は小さく呟き、手元にあったスコップで青い薔薇の周りを掘り始めた。一周の堀を作ると、根を崩さないように土ごとそっと持ち上げ、青い薔薇を他の鉢へと移し変えた。
顔を上げると、すでに夜明けは始まっていた。時間がなかった。彼女は鉢を手にすると一気に薔薇園を駆け抜けた。研究室に飛び込み、机の上に散らばった書類を全て鞄に詰め込み、薔薇に布を被せ、そのまま研究室を出た。
その場を離れる前に青いライトのスイッチを叩くように切り、青い水も蛇口を捻り止めた。そうして薔薇達が自然な赤に戻った姿を見ると、後は振り返りもせず、大学の外へと駆け出した。
彼女が向かったのは東京駅だった。ほとんど夢中の状態で始発の新幹線に飛び込み、席に座った時、初めて目の前の薔薇をじっくりと見た。布ごしに見える微かな水色をしっかりと抱きしめ、降りるまでずっとその姿勢のまま動く事はなかった。
彼女が降りた場所。それは、山形だった。前日まで彼女はここにいたのだ。実家までの電車に乗り、そして実家までの緩い傾斜の道を上った。体力的に走る事がもはや出来ず、母に会わないよう祈りながら実家を通り過ぎた。
彼女は実家の裏の坂を上り、コンクリート道から離れ、昨日入った林の中へと足を踏み入れた。誰も来ない奥にまで歩き続け、そこに沢を見つけた時点で彼女は初めてため息を吐いて崩れるように膝を崩した。
もはや限界にも近いような状態だった。しかし彼女はその布を取り、青い薔薇が無事にそこにいてくれた事に感謝した。
鉢を近くに置くと、彼女はその手で土を掻き分け始めた。かなりの時間はかかったものの、薔薇の根と同じ深さ程の穴が出来上がった。奈緒は、抱きかかえるように薔薇をその穴へと移し変えた。
美しい緑色の中に一つ、青い薔薇が新しく生まれた。
「ごめんね…」
その言葉しか出なかった。そして、ここで幸せになって、と音にさえならない言葉を呟いた。彼女は倒れそうな体に鞭打ち、鞄の中から数年分の研究資料を全て取り出した。それを沢へ持っていくと、透明な水の中へと、投げ捨てた。
紙は水を含んで撓み、黒い文字が滲み、文字でなくなっていく。それを見届け、彼女は初めて体を倒した。見上げた青い薔薇は昔からそこに咲いていたかのように仲間の緑達とよく似た色をしていた。これで彼女からは、花も、研究も、成功も、何もなくなった。しかし、そこに青い薔薇がいてくれるだけで良かった。
−幸せになって−
小さく、その言葉を呟いた。
彼女の顔は、わが子をあやすような表情を一度だけ見せた。




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 青い薔薇
 真夜中のカフェ
 夏の蝶
 失くした指輪
 心という小さな部屋で
 言葉ひとつぶん
 白の花
 夏の蝶
 ALL MY TONE
 M
 【長編】 桜舞う雪道を


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