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Shinobu Presents


第九話 「冬のひととき」


自分の鞄に荷物をしまいながらベッドの上のおじいちゃんに目をやると、もう深く枕に頭を沈めて目を閉じていた。あまった林檎は腐ってもいけないので、残りの一切れは私が口に入れて、静かに椅子から立ち上がる。
おじいちゃんはふいに目を開けるとゆっくりと言葉を絞り出した。
「本当に来てくれるのは未帆ちゃんだけやな..。すまんな」
「いいの、そんなの。来週も来るからね。無理しないでね」
私が言うと、おじいちゃんは目を閉じて軽くうなずくと、そのまま静かに小さな呼吸の音だけを漏らす。それを見届けると、音を立てないようにドアを開けて廊下へと出た。今日の皆との待ち合わせは2時。急がないと間に合わないのはわかっていたけれど、私はそこから動く事が出来なかった。
ドアを閉めると、そのままドアにもたれかかる。少し汚れた天井を見上げるが、さっきのおじいちゃんの表情は目に焼き付いて、離れない。
あの人はもうずっとこんな狭い部屋でじっと眠り続けている。おばあちゃんがいなくなって、一人になってから、あの人はいつも寂しそうに見える。それが皆にはわからないんだろうか。誰もこの部屋にはやって来ない...。
看護婦さんが少しこちらに目をやりながら他の病室へと入っていく。
私もいつか、あんな風になるんだろうか。
そんな不安がふと胸をよぎる。一体何年後の話なのかわからなかったが。
私はぐずぐずとくすぶる自分の気持ちをしっかりと抑えて、急ぎ足に廊下を歩きはじめた。これから待ち合わせなのに、一人暗い顔をするのもみんなに悪い。できるだけいつものように振る舞おうとするけれど、歩くリズムとは裏腹に気持ちだけはどうしてもさっきの思いをずるずると引きずっている。
自動ドアを通って寒い雪の街へと出ると、その空気の冷たさは引きずる思いを凍らせてしまうようだった。
靴が雪を押しつぶす音を聞きながら、ゆっくりと駅の方へと歩いて行く。


1時55分。ギリギリで長野駅に着くと、待ち合わせの場所にはまだ誰もいなかった。改札を間違えたのかもしれないと思ってあたりを見回すと、近くの自動販売機の前に敦司君が立っているのが目についた。何か飲み物を買うと彼もこっちを見て私に気づき、軽く手を振りながら、人をよけて歩いてくる。いつも彼の制服姿しか見ていないから、敦司君の私服というのもずいぶん雰囲気が違って見える。
「よっ。ぴったり時間通りだな」
「後の二人は?」
「あいつらは遅刻常習犯だよ。特に栞な」
と言って口元で笑いながら、缶コーヒーのふたを開ける。彼は何も言わずに私の目の前にそのコーヒーを出して軽く顎を上げる。
「いいの?」
「別にこんなのケチる気ないしさ」
彼の言葉に、暖かい缶コーヒーを受け取って、凍えた手を暖める。そっと口をつけながら時計を探す彼を見ると、意外と敦司君が服装にこだわっているのがわかる。
紺色のロングコートが背の高い彼にはとても似合っていて、センスの良さがよく見えた。
手の中のコーヒーを一口だけ飲むと、温かさがじっくりと体の中を通って行って、ある種の心地よさがあった。飲んだ後もしばらく手の中で転がして後の二人を待つ。
「これ、ありがと」
コーヒーを返すと、彼はいつものように豪快に一気に残りを飲み干してしまった。まだかなり残っていたはずなのに。空になった缶を近くのごみ箱に投げると、それは壁に跳ね返って偶然にも籠に入った。敦司君は私に向かって小さくガッツポーズを取る。
それにあわせたかのように、聞きなれた声が後ろから聞こえてきた。
「ほんっと、ごめん。何分遅れ?」
真一君だった。やっぱり栞が遅刻常習犯というのは確かのようだ。
「3分遅れ。このくらいなら許してやるよ」
顔の前で手を合わせる真一君の肩を敦司君が軽く叩いた。真一君の私服というのも初めて見たけれど、どことなく敦司君とよく似た雰囲気が合った。どちらかというと、真一君が敦司君に服の選び方なんかを教えた感じなんだろうか。
彼は長めの黒のコートにハイネック。私はどうも首もとがこそばゆくってハイネックというのが着れないから、それを着こなしているのがうらやましくも思えた。
「栞はどうせ、また寝てんだろ。どっか店に入らないか?」
「あ、良いねそれ。駅前なら何かあるはずだし」
二人の意見には私も賛成だった。駅構内といっても、やっぱり出口はすぐそこだし、何しろ風がよく通るので、ここも結構寒かった。
私は首もとのマフラーを整えて、真一君の隣を歩く。彼の向こうには敦司君。どうも彼は背が高いから、本当に目立つというか..。
駅の出口には外と駅との境界線が雪ではっきりと引かれていた。構内の階段は濡れてはいたけれど、コンクリートだから十分に歩く事ができた。ただ、階段を降りて外に出ると、屋根がなくなり、そこはいろんな人が踏んで汚れた氷の道のようになっていた。東京なんかでも冬によく雪が降ってニュースで転んでる人達が映っていたけれど、あれは多分こういう道なんだろう。どうも目が足下ばかりに行って、ひどくあぶない。両手もついつい遠慮がちに広げてしまう。でないとバランスが取れなかった。
「東京ってそんなに雪が降らないの?」
その声に引かれて、前に目をやると真一君が立ち止まって私に手を差し出していた。彼はどうしてそんなに上手く歩けるのだろう。私は正直言って、このままでは転ぶ自信がたっぷりだったので、彼の手に素直に甘える事にした。私が真一君の手を取ると彼はゆっくりと私の隣で、歩調を合わせて歩き出す。彼に右手を取ってもらっているので、少なくとも左手は広げる必要はなかった。さすがに都心の道の真ん中で両手を広げて歩くのは恥ずかしかったので、彼の手にはとても助けられる。
ひどく足下にばかり神経を使いながら道を行くと、横断歩道に突き当たる。そこは車が通っていたせいで、雪はなく、どろどろの黒い雪解け水の水溜まりがあるだけだった。
「お疲れ様」
真一君は笑いながらそんな事を言って、私の手をそっと離した。彼は手袋はつけていないので、まだ彼の体温が指の間に残っていた。その指を軽くいじりながら見ると、敦司君は意味も無くにやけながら、私の方を見ていた。
「何?」
私が声を低くして見上げながら聞くと、彼は「別に」と言って明後日の方に目をやる。
どうもこう..誤解されたというか。そんな誤解をされたら後で真一君に迷惑がかかるかも知れなかったけれど、敦司君がはっきりと言わない以上は訂正の仕様もない。私は仕方なく信号が青になると、早足で濡れた道路を歩いていく。後ろを歩く敦司君の視線が気になったけれど、振り向くのもためらわれた。
「どこ行こうか?」
隣の真一君が辺りを見歩きながら考える。
「本屋でいいんじゃねえの?」
敦司君が顎で指す方には、かなり大きな本屋があった。あの本店は確か東京にいた頃に行った事がある。ガラス張りなので、ここなら栞が来たらすぐにわかる場所だった。
結局他に行く所もなかったので、この本屋に落ちついた。
入ると東京の本店よりは小さいけれど、それでもかなり広い店舗で、じっくり見て歩くと一時間くらいは時間がつぶせそうな所だった。
「俺、窓際のとこに居るからさ、お前らは好きなの見なよ」
敦司君はそれだけ言って、ウィンドウの前にあるファッション誌のコーナーで適当な本を選ぶと、そのままペラペラとページをめくりはじめた。
「真一君は何見るの?」
彼はしばらく店内地図を眺めると、軽く首を傾けた。
「やっぱり楽譜かな」
私は特にこれと言って見たい本があったわけでもなかったので、彼について行き、楽譜のコーナーの前で足を止めた。楽譜といってもギター譜やヴァイオリンや吹奏楽の物まである。その中で彼が手に取ったのはピアノ譜だった。そう言えば前にピアノができるといっていたのを思い出す。
棚に並んだ楽譜を見ても、作品23番とかop16とか、練習曲とか、名前だけではよくわからないものが多かった。何かわかる物がないかと思って、端から順に見ていくと、彼はふいに私の見ていた所の一段下から楽譜を取り出した。
「こういうの、名前だけでも聞いた事ない?」
見るとタイトルは「エリーゼのために」とあった。作曲は..ベートーヴェン。この名前くらいはさすがにクラシックに疎い私でも知ってる。耳の聞こえない天才作曲家。
「聞いた事は..あるのかも知れないけど、名前だけしか知らない。これも派手な曲調なの?」
ベートーヴェンというと、どうしても第九が頭に浮かんでくるので、派手な音の曲が多いように思ってしまう。
「そうでもないよ。綺麗なメロディーだし、結構簡単に弾けるはずだよ?」
私は妙に感心しながらその楽譜のタイトルを眺める。他にもこの楽譜のあった棚には日本語タイトルのついた物が多く並んでいた。
「何かリクエストある? 聞きたいのがあったら学校で弾くけど」
「え、いいの?」
聞くと彼は軽くうなずいて楽譜の棚を指差す。見てみると、確かに多くのピアノ曲があった。
ラ・カンパネルラ、寺院、別れの詩、皇帝..。
いろんなタイトルを流して見てゆく中、ひとつだけ不思議と気になって目が止まる名前があった。
「主よ、人の望みの喜びよ...」
思わず口にしてしまう。すると彼はその楽譜を取り出して、作曲者のところを私に見せてくれた。
「バッハ。良いの選ぶね。これ、結構難しいけど」
と言って、笑いながらその楽譜を持ってカウンターの方へと行った。
そのまま楽譜コーナーで待っていると、棚の向こう、ウィンドウの傍で敦司君が手を振っているのが見えた。どうやら栞が来たようだ。
私はカウンターにいる真一君に伝えに行く事にして、その場を離れた。
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