Shinobu Presents
窓の外の景色は東京のそれとは全く違う。 家の前の道路の街灯は目に心地よい程度の柔らかい光を保っている。あの都市のように、夜の方が眩しい事なんて少しもない。夜は暗い。こんな当たり前の事に長野に来るまで気付かなかった。 雪が降り始めた。 街灯の周りにはオレンジ色の雪が舞い、私の部屋の窓にも白い点が付いては溶けて消えていく。部屋の暖房を消して、光も消したら、この窓にも雪のカーテンができるだろうか...。 いつまでも、こうして自分の部屋の窓から夜の雪を眺めていたかった。 自分は何なんだろう。どうしてこんな風になったんだろう。そんな事を考えると、ひどく疲れて気分が悪い。胸の奥、心臓の隣のあたりに、何か重たいものを詰め込まれたような気分になる。今日の出来事。みんなの好きなもの、そんな当たり前のものが自分にはない事に気付いて、一人居場所がないような気がして逃げるように帰ってきた。 ...本当に逃げたといった方がいいかも知れない。自分でもそう思う。 私は冷たい窓に額を当てて目を閉じる。ひんやりとした感覚が心地よい。ゆっくりと息を吐くと、窓が少し曇る。冷たさに全て消してもらえるような気がする。このまま私を凍らせて、そのまま放っておいてほしいかった。 そんな事を考えていると時間は勝手にすぎていく。どれくらいの時間が経ったのだろう。 突然部屋にノックの音が飛び込んできて私は急にまどろむ気分から、現実へと引きずり戻された。 「姉ちゃん、電話。学校の人」 豊が私の返事も無しにドアを開けて、受話器を差し出した。私は未だに頭が少しボーっとしていて、しばらくその受話器をじっと見詰めていた。 「姉ちゃん、起きてんのか!? ほら」 と言って豊は面倒そうに受話器を渡すと部屋から出て行った。まだ額が冷たい。文字通り頭を冷やしていたけれど、あまり考えの方はパッとしなかった。 何とか話をする決心をしてから、それを耳元に当てて軽く返事してみる。相手は思ったとおり、栞だった。 「ね、未帆。今日どうしたの? 気分でも悪かった?」 「ううん、別に。ごめんね、今日」 「それは気にしなくっても良いから。未帆が大丈夫ならそれでいいから」 耳元に暖かい声が響いてくる。それは冷たい頭にはしっかりと伝わってくる。頭の中の何か凍りづけになっていたものがゆっくりと溶けていくような気がする。 けれど、彼女の声が私を暖めていくごとに、自分が彼女から遠ざかっていく気がした。私にはみんなとつりあう物がなくって、そしてそれが理由で心の奥に汚い嫉妬なんてものが見え隠れしているのだから。氷が溶けるとその中に含まれた土も一緒に出てきてしまう。そんな感じがして。 「ね、未帆。明日って土曜じゃない? みんなでどっか遊びに行かない? 敦司と真一は暇らしいから」 彼女の問いかけに自分の心を覗くのをやめ、その話に耳を傾ける。軽く返事をするとまた彼女の声がリズム良く流れてくる。 栞の話し方はまるで音楽を聴いてるみたいに、途切れる事も、つまずく事も無く綺麗に流れていく。私はあまりその話の内容は聞いてはいなかったけれど、とても心地よい音楽に身を委ねて、いつまでも長話を続けていた。 「じゃ、明日お昼の三時に駅ね。遅刻しちゃ駄目よ」 「うん」 音楽が消えると、私は受話器の電源を切る。とても静かな、音のない夜のひとときがこの部屋にはあった。辺りを見回すともちろん誰もいるはずもなく、ただ机の上の銀の十字架だけが窓から入る月の光を灯していた。 土曜日の朝は雪だった。パンを食べながら今日の天気予報を見ると、長野は一日中、雪らしい。地域の天気予報に、関東地方ではなく中部地方の天気図が出るのにももう慣れてしまった。引越し初日には、どこの地図かすらわからなかったのに。 「未帆。今日おじいちゃんのところ、行ってくれるんでしょう? よろしく言っておいてね」 お母さんが眠そうな目を擦りながら、台所へと足を運ぶ。普段お父さんや弟の弁当を作るために早く起きているせいか、会社も学校もない日はお母さんも寝起きが悪い。自分の朝ご飯を作るのも面倒そうに冷蔵庫の前に座って、その中身とお見合いをしている。 「何にもないのよねえ..。この果物は-」 「駄目。それはおじいちゃんの所に持ってくの」 私がお母さんの手の中の果物のカゴを取り上げると、お母さんは唇を尖らせて恨めしそうに私をじっと見上げる。 「子供じゃないんだから」 言って果物を手に持って、机の上のマフラーを取る。窓の外には雨よりずっとゆっくりと、白い雪が舞い降りていた。 「行ってくるね。今日はそのまま友達と夕飯食べてくるから」 寝ぼけたままのお母さんに言い残すと、冷気の染み込んでくる玄関で靴を履く。今日は誰も出ていないからやけに靴が多く感じられる。 ドアを開けると、肌に痛いほどの空気でいっぱいで、その中を私は傘を差して慎重に歩きはじめる。雪道を傘を差して歩くというのはどうもまだ苦手で、気を抜くとすぐに足を取られるか転ぶかしてしまう。歩き方というのはどうも上手く身につかない。近くのバス停に行くと、この雪でも定刻にほとんど遅れることなくバスがやってくる。いつも学校に通うのに使っているバスに乗り、いつものように電車に乗り換えるが今日は行く先が反対方向だ。毎日使っているホームを線路の向こうに見ながら逆の路線の電車に乗った。見なれない景色が流れる中、今日の行き先に思いをはせる。確か三十分くらい行ったところの駅だったはず。 東京で都心から三十分と言えば、十分にまだオフィス街の並ぶ範囲だが、こっちでは長野駅から三十分も行くと、もうオフィス街は姿を消し、小さな村のような町並みが見えてくる。 ここへ来るのは何度目かだけれど、未だにこの景色にはうっとりする。 木造の小さな駅で、改札はもちろん部屋の中から駅員さんが切符を受け取るという形。木は黒ずんだものもあり、いつ雪の重みでつぶれてもおかしくはなかった。 街並みは駅に合わせたように、駅前にはタクシーのいないごく小さな広場があり、その向こうにはもう細い道がいくつか奥へと続いているだけだった。 ゆっくりとその雪の中を歩いていくと、雪が積もった石の塀が続く。その庭の木々の枯れ枝が透明のガラスのような薄い結晶の雪をのせて、曇り空の中で鈍い光を放っていた。もし晴れていたら本当に綺麗だったろうと思いながらしばらく行くと、民家の中に突然大きめの病院が現れる。この辺りの病人の全ての面倒を見る、大きめの総合病院があった。五階建てくらいだろうか。ここだけ妙に違和感のある場所だった。周りと雰囲気があっていないというか。ここは大学の医学部のキャンパスもかねているのでこれほど大きな病院がこんな田舎町に建てられたのだろう。 私は駅の厚い自動ドア(もちろん、防寒用に二重のドア)から中へ入ると、そこは暖房のよく聞いた場所で、顔や手がじんわりと柔らかくなっていくのが手に取るように感じられた。 看護婦さんが軽く頭を下げながら前を通っていく。ズボンや袖に着いた雪を振り払ってから、マフラーを取ってエレベーターの方へと歩いていく。ロビーで幾人かのお爺さんやお婆さんが座って相撲を見ながら雑談する、どこにでもある風景を横目にエレベーターに乗り込んで、4階へ。 この階の角部屋、大きな窓のある411病室に私のおじいちゃんがいた。 開けっ放しの横開きのドアを軽く叩くと、ベッドのおじいちゃんが嬉しそうに笑いながら私の方に振り向いた。 「未帆ちゃん、ひさしぶりやね。よお来てくれた」 言いながらベッドの上から手を伸ばしイスを取ろうとする。私はそれを止めて自分でイスを持ってきてそれに腰掛けた。 「おじいちゃん、無理しないでよ。腰が弱いんだから」 おじいちゃんを寝かせて、持ってきた果物を早速出してテーブルの上に置く。とりあえず一番上の林檎を、持ってきたナイフで皮を取って食べやすい大きさに切っていく。 「元気で学校には行っとるのか..?」 「うん。豊も元気。お父さんは仕事が忙しくって来れないみたい。まだ会社が変わったばかりだから」 と言うと、おじいちゃんは「啓介にも頑張れと言っておいておくれ」とだけ口にして、私の林檎に目をやる。 私は知ってる。お父さんが土曜日には仕事も休みで家でごろごろとしながらテレビを見ている事。お母さんがご近所さんの家に遊びに行ってる事も。豊が友達と一緒にゲームセンターへ通ってる事も。 本当は皆ここへ来る時間があるという事を。 「未帆ちゃんは良いお嫁になれるぞ、きっと..」 とおじいちゃんが小さな声でつぶやいた。一瞬、ドキッとさせられる。おじいちゃんがもう誰も来ないという事を知っていて、そんな事をつぶやいたのかと思ったからだ。その目線が林檎に向かっているのを見て、そうじゃないという事がすぐにわかったが。 「できたよ」 小皿にいくつか入れてお爺さんに渡すと、弱った口を動かしながら、おそるおそる一片の林檎を口に含む。とても私達の食べる時のような、水のはねる良い音はしなかった。 「どう?」 自分の分の林檎を食べながら椅子に腰掛ける。わりといい味がする。ずっと冷やしていただけのことはある。 「うん、うまい..」 本当に嬉しそうに、目を細めながら少しずつかじって食べる。 まるでずっと何も食べていなかったように..。 私はそれに何か言えればよかったのだが、結局はおじいちゃんの向こうを舞う粉雪を眺めているだけだった。
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桜舞う雪道を-
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