Shinobu Presents
その日はずいぶんと寒い朝だった。まだ11月なのに東京の真冬と同じくらい寒く感じた。いつものように家族が寝静まっているような時間に家を出て、冷気を漂わせる道を歩いていく。少し早めに来たバスに乗りこむと、暖かい空気が私を包んでくれた。 授業は一時間目は英語。二時間目は古典。そこまでは別にいつも通りだったけれど、今日は土曜日なので、三時間目で授業は終わる。そして、その一週間の最後の授業は東京の公立高校にはなかった、宗教の時間だった。 転入初日に通った、雪の庭の真ん中を突っ切る屋根付き通路を歩いて行く。隣の栞も数学の問題集を片手に、この学校の宗教を説明してくれる。もちろん、彼女は宗教には全く興味がないせいか、熱心な宗教家の人が聞いたら怒るような説明ではあったけれど。 二人で教会の聖堂の扉を開けると、中にはもうすでに多くの人達が座っていた。 そこは本当に結婚式などのできそうな教会だった。正面には巨大な祭壇と十字架、ステンドグラスの絵画、その隅には黒ずんだオルガン。そして長椅子が中央の通路にそって両側に並んでいる。割と聖堂自体は広いので、宗教の時間は2クラスが一緒に授業を受ける。そのせいか、知らない人も多く長椅子に座っていた。 「席は好きな所に座っていいから、この授業は。でも後ろの方はもう空いてないね。前、行こっか」 栞は入り口近くに立つ多くの人の合間を縫って、中央の通路を真っすぐに歩いていく。私も遅れないようについていくと、ふいに彼女が足を止めて、長椅子に座っている一人に軽く声をかける。近くに行って見てみると、その人は真一君だった。昨日、結局最後は会えなかったけれど、ちゃんと学校に来ていたので妙にほっとした。 「未帆、真一の隣に座ってよ。私、二人の後ろに座らせて。数学やってるのがばれたら、またあの牧師うるさいから」 言って、彼女は真一君の後ろに座る。確かに私が彼の隣に座れば、栞は私達が邪魔になって、牧師から見えなくなる。さすが、と思いながら彼の隣に座って宗教の教科書を置く。なんだか、昨日は彼を待たずに帰ってしまったのがすごく後ろめたく感じられて、しばらく言葉に詰まってしまった。でもこのまま黙っているわけにもいかない。とりあえず何か言わないと、と思いやっとの事で口を開いた。 「真一君...」 彼は小さく、ん?と言いながら私に目をやった。 「昨日、大丈夫だった?」 「別に喧嘩しにいったわけじゃないからね」 と笑顔で教科書を閉じる。 「ちょっと予算の事で、先生がもめてただけ。ほら、ここの生徒会って生徒代表でクラブの予算請求を学校側にまとめて出すから、学校側も面倒なんだよ、この時期は」 ふーん、と私はうなずきながら感心する。私のいた学校の生徒会なんて、とにかくやる気がなくて、本当に活動してるのかどうかすら怪しかったのに。 そう言えば彼は生徒会の何の役なんだろう。栞が副会長というのしか聞いてはいなかった。 「真一君って、生徒会長やってるの?」 予算を出せるという事はそのあたりなんだろうかと思って聞いてみると、彼は軽く手を振りながら答えた。 「生徒会長は三年の先輩がやってる。僕はただの会計だから、実際は副会長の栞の方が偉いんだよ」 そう言われて後ろを振り向くと、彼女は数2の微分、積分の問題をクイズを解くみたいに、すらすらと解答欄に書き込んでいた。私なら間違いなく、10分はかかるような問題だった。 「栞って、頭良いんだね...」 また彼の方に目線を戻して言うと、「特に理系はね」と彼は声のトーンを落として言った。 なぜ小さな声になるのかと思うと、ちょうど牧師が前に立って、何か言おうとしているところだった。牧師は、おそらく聖書と思われる、小さな本を片手に「主の祈り」を詠いはじめた。 「天にまします 我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行われるるごとく地にも行われん事を...。我らが日用の糧を今日我らに与えたまえ。我らが人に許すごとく−」 しばらくこの詠が続いた後、アーメンとだけ全員で言い、その後は普通のキリストの歴史などを牧師が語りはじめた。私はもちろん宗教の事はわからなかったので、アーメンと言うべきところも、一人何も言えずに黙っていた。聖堂から全員の声の名残が消えると、周りの人達はそれぞれにノートを開き始めた。 後は歴史の授業とさほど違いがあるわけでもないので、やっと私にも授業について行けるようになった。もちろん、栞のように内職をしている人や、うとうとと首を揺らす人がほとんどではあったけれど。 首を揺らして夢の世界に行ったり来たりしている人達を見ていると、牧師独特の、人を許すためにあるような穏やかな口調の授業にのって、睡魔が私の肩をもたたきはじめた。 宗教は初めての授業なのに、いきなり寝てしまうというのはさすがに抵抗があったので、私は何度も目をこすって、首を振り、とにかくその空気に流されないようにと振る舞った。 でもいつまで持つかというと、あまり自信は持てなかった。 「ずいぶん眠そうだね」 牧師の眠りの言葉の中、突然耳に心地よいはっきりとした声が届いた。 振り向くと、隣の真一君が私を見て、かすかに笑っていた。 「別に寝てもいいんだよ? 牧師は許すのが仕事なんだから」 流れるクラシックミュージックのような空気の中、響かないように頭を低くして、小声で尋ねた。 「真一君は、大丈夫?」 「一応、家はキリスト教だしね」 と言って制服のシャツの襟の下から一本の銀の鎖を引っ張った。それに引かれて襟元から一つの十字架の首飾りが姿を見せた。それはステンドグラスの大きな窓から入る光をかすかに反射してとても綺麗な色を放っていた。 その光をはね返す姿に目線を離せずにいると、彼はゆっくりと首の後ろに手を回し、十字架を止める極細の鎖を外してその手の中に収めると、そっと私の聖書の上に置く。かすかな銀の擦れ合う音が耳の中に微かに、でもはっきりと届いた。 彼は私の目を見て軽くうなずく。 それは手に取ってみると、とても軽くて、持っているという実感があまり湧いて来ない程だった。私の指にかかった銀の鎖は光の加減で、場所によって微妙に明るさが違い、それによって持ち上げられた十字架は、その向こうに見える祭壇の十字架と同じ形をしていた。 ゆらゆらと揺れる十字架が場所によって、一定のリズムできらっと光る。それは純粋に綺麗としか言いようのない光景だった。 きっと「心奪われる」という言葉はこういう気持ちを表わしたものなのだろう。 「気に入った? それ」 彼の言葉にふっと意識が十字架から抜け出した。真一君の言葉に、私は笑顔もなく、ただうなずく事しか出来なかった。まだ意識が少しぼーっとしている。完全に十字架に魅入られてしまった自分がいた。他人のものだけれど、ひどく自分の心の中の大きな部分を掴まれた感じがする。 「ほしかったら、あげるよ」 彼は聖堂に響く牧師の声に重ねるように、優しい声でつぶやいた。 「え...、でもほら、..あれだし」 まだ口が上手く回らなくて、ちゃんと言えない。今日も付けていたという事は、彼は少なくともこの十字架が気に入っているはず。嫌いなものなんて付けはしない。 それを私がもらうと言うのは− 「他にもっとお気に入りがあるから。いいよ」 私の考えを読んだような言葉だった。 普段の私なら、もっと遠慮して意地でも返していただろう。でも、意地汚い話だけれど、この十字架を私は本気で好きになっていた。いつでもそばにこの十字架があってくれたら、と。そんな事を思うようになっていた。 「ごめん...」 ありがとう以前に逆の言葉が口をついて出る。何年もの片思いがやっと叶った時のような喜びが胸を満たして、出たのが「ごめん」という言葉。 自分のやっている事がよくわからなかった。 どんな顔をして良いのかわからなくて、彼を見ると真一君はさっきと同じような顔をしていた。自分の大事なものがなくなったのに嫌じゃないんだろうか。 私の気持ちとは裏腹に、牧師は許すような声でいつまでも同じ話を繰り返していた。 私の気持ちも許してはもらえるのだろうか...。
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桜舞う雪道を-
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