Shinobu Presents
必死で走った。彼の待つ所へ。 寒さなんて関係なかった。ただ、彼に伝えたいと思っていただけ。 左手を守ってくれている時計が揺れていた。 第三十八話 「伝えるという事」 「真一君!」 彼を見つけたのは、大きな橋の上だった。彼は振り向く。私は彼の傍まで走り、ゆっくりと、走るペースを遅めた。 彼の前に止まった時、もう息が大きく荒れていた。 「伝えたい、事、あるの」 言葉が途切れ途切れになる。胸に手をやる。これは、走って荒れた心臓を抑えるものか、それとも違う気持ちからかはわからなかった。息が白く、川上から来る風でそれが流されていく。 「焦る事ないし、息、収まるまで待ったら?」 彼が優しい声でそう言った。私も頷いてから一つ息を大きく吐く。もう辺りは暗くなり始めていて、橋の上には茶色の街頭が灯りだしていた。 「あれから、いろんな事考えたの」 何台かの車が、車道を走り抜けていく。ヘッドライトの光が彼を一瞬で通り抜けた。 「気持ちを伝える事とか、真一君がどうやったら音楽続けられるかとか、私に何にも出来ないんじゃないかとか」 「そんな事−」 彼の言葉を遮るように、私は首を横に振った。彼の言葉は優しいけれど、それが事実なのもわかっている。 「いろんな事、諦めようかとも思った。真一君といる事とか、一緒に音大行く事とか、もっと先の事も」 自転車が、私達の横を通り過ぎていった。橋の上はまるで劇場の様に、茶色い照明が続いていた。彼のずっと奥の奥まで。この橋はそれ程までに、長く、大きかった。 「一人で、やっていこうと思った。でも私、よく考えたら、何も伝えてないって思った」 「未帆の、気持ちの事? それなら、伝わってる。僕がそれに何も言えないでいるだけだから未帆は悪くないよ」 私達は、二人とも同じ場所を見ていた。二人の間の小さな影か、川下の鳥達か。あるいは茶色と空の紫色に染まった橋の上か。 「気持ちも、そうだけど、私、自分の事を何も話してない」 言葉が、強く溢れた。自分の口から出たというより、抑えきれずに溢れたようだった。彼に対して何も話せていない自分が嫌で、それを叱るように。そして、自分を少しだけでも、勇気づけるように。 「真一君、私の昔の事、知ってる?」 彼の表情を、しっかりと見つめる。彼の反応が、怖くても。彼も、私を見る。久しぶりに二人の目線がぶつかった。これから、彼の表情がどう変わるのか、わからない。 もし、嫌われたらー。 この気持ちばかりが、走っている時も話している時も胸から離れない。私に「やめろ」と何度も抑えにかかる。 そんなのいけない。 この一言を、胸の奥に言いつける。 左手の時計を外した。小さな金属音と一緒に、何年も前に買ってもらった時計が私の左手から離れた。 彼は、私がどうして時計を外したのかわからないようだった。 その左手を、彼に差し出した。 まるで自分が裸になったような、恥ずかしさと罪悪感が左手に乗っているようだった。 彼が、私の左手に、…いや、手首に、その手を添えた。 もうそこから先は見る事ができなかった。彼から顔をそらす。 「これ…」 彼の声が小さく聞こえる。冷たい風が私の髪を川下の方へと流す。 見なくてもわかる、嫌でも思い出す左手の傷。怪我とも、事故とも違う、自分で付けた古いもの。毎日見る度に今でも自己嫌悪に落ちるきっかけ。 これから手術を受けるかのような、震えが左手を包んでいる。ぎゅっと、手のひらを握りしめる。 「長野に来る前の私、想像、つくでしょ。私がクラスでどんな風だったか」 彼の、言葉はない。それが私の不安でもあり、逆に、何も言ってほしくない気持ちもどこかにあった。 「毎日が嫌で、中三の頃に。結局、入院して、死なずに今もここにいて、こんな風に傷だけが残って…」 もうやめよう。 逃げよう。 自分の弱い部分が何度もそう叫んでいる。今までもそうして来たみたいに、時計を付けて隠していればいい。そう叫ぶのが聞こえる。 けれど、もう彼からは逃げたくない。私に、真衣さんの事を何か言う事はできない。でも、少なくとも彼に伝えずに逃げながら、奇跡みたいな話だけを待ち続けるのはもう嫌だ。 「すごく、後悔してる。いつも時計を付けて隠してきて、誰にも話せてない」 時計を握る右手に力が入る。この痛みが私をここに引き留めているのかも知れない。今まで隠す方に助けてくれていたおじいちゃんの時計が、今は話す方へと助けてくれる。そう思って握りしめる事で、話す自分にあと一言、あと一言と話させる。 「ずっと隠してた。だから、いつも何か隠してる気がして、自分の気持ちを、誰かに本当に伝えるなんて出来ない。ずっとー」 言葉が、詰まった。そこで、言いたかった何かが出口を無くした。本当は、まだ言いたい事があったはずなのに。 「私ー」 そう言った時、差し出した左手を、彼の手が包み込んだ。私の傷を隠すように、手首をつかんで力を込めた。彼の手の温度が私の手首に染みこんだ。 彼の表情を見るのは。 怖かった。 紫色の川と空が映った視界に、彼の方を向かせようとする。視界は徐々に動いて、橋の手すりから、私達の足元の影を映し、そして彼へと。 彼の細い手は私の手首をしっかりと握りしめ、そしてその目は、緩やかだった。 「嫌じゃない? こんな私の事」 彼は、一度だけ、小さく首を横に振ってくれた。 「簡単に、嫌とか死ぬとか、言わないで」 じっと私を見たその目はとても不思議な色をしていた。彼は、怒っているのかも知れない。そして同時に悲しんでいるようにも見える。 どちらとも取れる、強い目をしていた。 私は、たとえ彼が今何を思っていても、私の手を握っていてくれているだけで素直に良かった。 彼が、受け入れてくれた歓び、そして話してしまった自分への後悔と満足、これからへの不安。色んな物が混ざり合って。目が熱くなっていた。 気持ちはとても複雑に絡み合っていて、歓びや悲しみのように一つの言葉で言える物ではなかった。ただ、気持ちと目がかけ離れてしまって、目だけが勝手に熱を帯びているようだった。 私はそれを拭えず、そのまま上を見上げた。目の前には紫色から黒に変わり始めた空と、その中で黄色く光る月が姿を見せていた。 今日の月は、私を味方してくれているように、曇りなく私達を照らしてくれていた。 「手、このまま、離さなくてもいいかな」 彼は、泣き出しそうな顔をしながらそう言った。少しおかしかったけれど、きっと私の方がひどい顔をしている。涙でぼろぼろに濡れた頬で、小さく笑顔を作ってうなづいた。 傷の話を、すべきじゃないかとも思った。彼に昔の事を思い出させるかと思ったから。けれど。彼が彼女をどう思っていても、それとは関係なく彼に気持ちを伝えたかった。 本当はこんな事をする性格じゃないけれど、彼にだけ、今日だけ、自分勝手にならせてほしい。口にはしなかったけれど、そうして彼に感謝した。あとは、昔の事も、私の昔の事も、これからの事も、彼自身に決めてもらう事だった。 「ありがとう…」 どっちが、口にしたんだろう。私か、真一君か。 もうそれすらもわからなかった。 けれど、私達はその手を触れあわせたまま、お互いの体温を感じながら、冷たい橋の上で立ち続けた。 月の光と街頭の光が混じりあって、黒い空から私達をかばってくれていた。 Shinobu Presents
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