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Shinobu Presents


熱いシャワーの中で考えていた。
真一君には逃げられないものがあって、それは私も同じで、向かい合えないものがある。
彼を、支えてあげたい。けれど、自分自身ですら向かい合えない私に、何ができるんだろう。
立ちこめる湯気の中、前髪から滴がぽたぽたと落ちる。
頭がぼんやりとする。
こんな時でも、彼の事を考えている。

第三十七話 「雪の坂道」

坂道の木々は雪を落ち葉のように落としていた。時に激しく、時に粉雪を道にばらまく。春になれば、きっと緑色に変わるこの坂道も、今は白い桜の舞う場所だった。
寒さの残る日曜日。私は一人で初めての駅を降りて歩いていた。お母さんにもらった地図だと、この坂道を上りきった所がおじいちゃんの墓地だった。おじいちゃんが亡くなってから、まだそのお墓へは行った事がなかった。
最近できたばかりなので時間がとれないままだった。
…と、自分には言っている。けれど、本当の理由は行きたくなかったんだろう。行けばおじいちゃんを思い出す。すると、それと一緒におじいちゃんといた東京の頃が思い出されるから。
東京にいた頃の自分。クラスになじめずに、一人でいる時間がとても長かった頃。受験勉強に必死になる事でそれを何とか誤魔化して、自分に言い聞かせて、時間が過ぎる事だけに集中していた頃。
道の真ん中で足を止めると、小さく首を振った。
いつも、思い出すのはここまで。思い出の入り口まで。これ以上先を思い出すと辛くなる。いつもここでドアを開けずに逃げ出してる。
一歩、坂道に足を踏み出した。坂道が左にゆっくりと曲がり、それと同時に右手には数多くの石が並んだ墓地が広がり始めた。
坂道の途中で墓地に降りる階段があった。それを、慎重に一歩ずつ降りる。
昨日、彼と教会で話をしてから、自分がどうすれば良いのか、全くわからなくなった。彼は自分が気持ちを表現できない事、そしてそれ故にピアノを続けるかどうかを悩んでいる。私自身も、彼にどうしたいのか、逃げてばかりの自分が彼に何をしてあげられるのか、答えが何も見つからない。
ただ。そんな中。一つだけはっきりとした事もあった。
それは、彼が好きだという事。これを自分自身にはっきりと言う事もできなかったけれど、今はその気持ちだけが自分の中で動かしようのないものになっていた。
階段を降りきる。墓地の中に立つと、本当にここにおじいちゃんがいるんだなという実感が沸いてくる。中央の道を降りて、いくつもの石碑を横目に通り、一つの石の前に立ち止まった。
それが、おじいちゃんが入ったお墓だった。
ほんの数ヶ月前まで話していた人が今、こんな所にいると思うと不思議な感覚がする。
「久しぶり」
そう言って、おじいちゃんの前に膝を下ろした。両手を合わせて、もう一度見上げる。おじいちゃんは何も言わないけれど、それはいつもそうだった。いつも私が何か悩みがある時、おじいちゃんに聞いてもらっていた。何か気の利いた事を言ってくれるわけではないけれど、不思議といつも悩みが良い方向へ向かっていたような気がする。
「また悩み事、持って来ちゃった」
きっとこうして口にしなくても聞いてくれているだろうけど、それが少なくともおじいちゃんへの礼儀かと思えた。東京にいた頃は、よくこの一言でおじいちゃんが笑っていた。またか、と言いながらちゃんと聞いてくれる。あの頃は、自分が一人きりで、どうしていいかわからずに泣きすがった事ばかりだったけれど、今は、それとは少し違った。
悩んでいる事が、自分だけじゃなくなった。真一君と自分の事に変わっていた。
小さくため息を付く。少し街から外れる分、ここは冷える。口元に両手を運んで息を吹きかけ温める。
昨日真一君が悩んでいた事。気持ちを表現出来ないから、プロにはなれない。それはつまり、このまま音大を止めて、普通の大学へ行くという選択肢を考えろと言われた事だった。
それは、私にとっては、悪い言い方をすれば「良い事」だった。少なくとも彼は東京の音楽専門学校へ編入しなくなる。つまり受験の間、もう一年彼と一緒にいられるという事だった。
「でもそんなのおかしいよね」
と自分で笑っていた。本当に彼が好きなら、そんな事思うべきじゃない。やりたい事があるなら応援してあげたい。
ただ。こんな自分に何ができるんだろう。それが昨日からずっと考えている事だった。彼と同じように、昔の事でずっと自分を苦しめてる私が、偉そうに「頑張れ」とか「乗り越えられるよ」とか、そんな軽はずみな事は言えない。
自分が何も越えられていないんだから。
「私、おじいちゃんといた頃と一緒だよ。何にも変わってない」
そっと首を振る。風が変わって、坂道の粉雪がここにまで降り始めた。
「どうしたら、私達、幸せになれるかな」
半分諦めたような声で、両手を下ろした。その動きに合わせて、左手の腕時計が腕の中でずれた。いつもピッタリに付けていた腕時計がその場所から少し動いた。もしかしたら、付け方が悪かったのかも知れない。
その時計の跡が付いた左手には小さな傷が見えた。
おじいちゃんが昔くれた腕時計。いつもここに付けていれば、それは見えないで済むから、と言って泣きじゃくった私にくれた時計。
シャワーの時も、寝る時も。この時計を外す度に見えるこれが嫌だった。けれど、今は不思議とそれが嫌ではなかった。それは、おじいちゃんが昔の出来事を知っているからかも知れない。
時計の跡の上に見えるその傷をじっと見つめた後、おじいちゃんの方を見上げた。
「この時計、とっても嬉しかったけど、…いいかな」
右手が、しっかりと時計を包み込んだ。右手に力が入って、時計が食い込み左手が痛い。それでも。私は止めなかった。
「真一君になら…話せるかも知れない」
そう言うと、私は自然と立ち上がっていた。彼の事ばかりを考えてる。それだけ彼が自分の中で大きくなってる。今まで、ずっと逃げて逃げて、逃げ続けて来たけど、彼がもし受け入れてくれるなら、…私は話せるかも知れない。
そう思った。
思ったと同時に、彼に会いたい、と思った。強く。今までにない程に強く。
「おじいちゃん、ありがと!」
そう言うと私はすぐに駆け出し、墓地の階段を駆け上がって坂道へと出た。曲がった坂道を下りながらおじいちゃんのいた場所を一目見た。そして、その後は夢中で坂道を駆け下りていた。
粉雪が頬に当たる。白い桜達の中で、彼の事を考えていた。
ポケットから携帯を取り出し、彼の番号を選ぶ。坂道の終わりの方が見えた頃、電話の向こうに彼が出た。
「もしもし、真一君? 今どこ!?」
無茶を言っているのはわかってる。無茶しているのも。でも、今の気持ちを止めたくはなかった。彼と待ち合わせの場所を決めて電話を切ると、坂道から住宅地の道へと入り、駅までの道を駆け下りていた。



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