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Shinobu Presents

真一君が帰ってくる。今日はその日だった。
朝、ずいぶん早くから目が覚めて、眠れなかった。ただ、白々と夜が明けて、窓の露が流れ落ち始めて、初めて…不安がよぎり出した。暗い部屋を、紫色の空がぼんやりと照らし始める。
そんな時、だった。
私の気持ちを知っているかのように、マナーモードのままの携帯が光り始めた。

第三十五話 「気持ちを表現する事」

朝、七時四十分。
季節が暖かくなり始めたと言っても、こんな時間だとまだまだ空気が冷たい。肌の痛みを堪えながら学内の教会の前で彼を待つ。こんな時間なのでもちろん人はいないし、校舎も開いていないものが多い。彼が教会を選んだのもそれが理由だろう。この時間で入れる所はここくらいだった。
教会を見上げると、雪がなくなって長く尖った屋根や白壁がその姿を見せていた。ここに来るのも本当に久しぶりのように思えた。
静かな教会の奥から、微かにピアノの音が漏れてくる。こんな時間にもう誰かいるんだろうか。私はそっと、その思い扉に手をかけて押し開けた。冷たい空気が私と一緒に教会へ流れ込む。扉を閉じると音も止まる。十字架の傍、祭壇の隣に置かれたピアノに座っていたのは今朝電話をくれた、真一君その人だった。
「もう来てたんだね」
「ごめん、こんな時間に」
教会の両端にいる私達だけれど、声は通路の上をよく通った。私の足音ですら聞こえる。そんな静かさの中、彼のいるピアノに向かった歩いた。真一君は一度十字架に目をやると、そっと立ち上がる。
「東京、行って来たよ」
「音楽学校、どうだった?」
言って小さく笑顔を作ってピアノの隣で足を止めた。すると、彼は私の予想と違って、少し笑いながら首を横に振った。
「ダメだった。講師の人に僕の曲を聴いてもらったけれど、全然、…ダメだった」
表情だけが、悟られないように笑顔でいるけれど、その目が彼の受けた苦しさを語っていた。彼はもう一度、小さく首を横に振った。
「どうして…?」
私がそう聞くと、彼はピアノの前に座り直し、人差し指を鍵盤の上に乗せた。高音が一度だけ、教会内を飛び交った。その音が静まり、教会の中を冷たい空気が包み込む。
「言われたんだ。僕は、BGMを弾くピアニストにはなれるって。でも、人を感動させるピアニストには、なれないって」
「ひどいよ、それ」
聞いた瞬間に私は一歩前へ踏み出していた。私なら、彼のあんなに綺麗な音を聴いて、バックミュージックだけのピアニストだなんて絶対に言わないし、言えない。彼が落ち込んでいるのはその表情だけでわかるけれど、それは彼が悪いんじゃなくて、講師の方が間違っている。心の底からそう思った。
けれど彼はそんな私の顔を見て、もう一言、付け加えた。
「自分の気持ちを表現できていない。って言われたんだ」
「自分の気持ち…」
彼の言葉を、無意識に繰り返している私がいた。『自分の気持ちを表現する』。ピアニストには確かに大切な事だと思う。でも彼は、それが出来ていないんだろうか。それを意識しながら彼の曲を聴いた事はないからわからない。
彼は、その綺麗な指を鍵盤の上で流した。それに合わせて黒光りするピアノから太い音が流れ落ちる。その音は確かに以前聴いたような綺麗な音だった。とても、今私には出せない物のように思えた。
「一度聴かせてほしい…」
気が付くと、私はそうつぶやいていた。ピアノを始めてから彼の曲を聴くのはこれが初めてかも知れなかった。それくらいに彼の曲が私の中で思い出のようになっていた。
それをもう一度確かめたくて、私はそう言い、近くの長椅子に座っていた。
真一君は、この冷たい空気の中で指を慣らして姿勢を正した。両手が白い鍵盤の上に並ぶ。その指が鍵盤に落ちると教会は一つのコンサート会場に変わった。太く重い音、軽く透き通る音、男性的な音と女性的な音が混じり合っているような、彼の演奏にはそんな幅広さが感じられる。
ピアノを弾いて、彼と同じ土台に立って、初めてわかる事がある。
今感じているのがそれだった。私にはとても表現できない。そんな表現力が彼にはあった。
ただ。
その感動の中にいる自分を抑えて、その先生の言った『自分の気持ちを表現』という言葉で頭を埋めてみる。そうして、彼が何を思って弾いているんだろう、というのを考えながら。感じようとしながら聴いていると、始めはわからなかったけれど、曲が中盤、後半へと差し掛かるにつれて何となく、感じられてくる。
その人が言いたかった事がわかるようになってくる。
彼が今、悲しいのか、嬉しいのか、それがはっきりしなかった。曲を書いた人間の気持ちをしっかりと表現はできていると思う。けれど、彼本人が何を思っているのかが、結局最後まで、見る事ができなかった。
彼が、弾き終わって私を見た。
少なくとも、私は満足の言った顔をしていなかったんだろう。その先生の言葉の意味を何となく、感じてしまっていた。その私は、彼に言葉をかけた先生と同じ顔をしていたのかも知れない。
「気持ちを表現するって、何なんだろうね」
彼はそう言って、鍵盤に両肘を落として両手を口元にやった。不揃いな音が辺りに響く。
私もため息をついて長い机に体を預けた。
真一君は当然音楽を続けていきたいと思っていただろうし、自分の腕を信じていただろう。私も彼の音のすばらしさを知っていたし、彼ならやっていけると信じていた。
その私達の信じていた物が、この一曲の間に全て潰れて、まるでその残骸の上に座っているようだった。
けれど、彼のバラバラになった夢を私は今でも信じているし、その欠片を。集めてあげたかった。
それは彼のためでもあるし、私のためでもあった。
「私、音大へ行きたいんだ」
言葉が、彼に届いた。彼はそっと顔を上げて、私を見た。こんな時に言うのはひどいかも知れないけれど、私は彼がこのまま消えていくのを見たくはなかった。
「未帆なら、きっと行けるよ」
私は、髪が乱れる程に大きく首を横に振った。
「違う。真一君と行きたい」
ひょっとしたら私はとんでもない事を言っているかも知れない。けれど、もうそんな事はどうでも良かった。
「同じ音大じゃなくても良い。一緒に音大に行きたい。だから、真一君には諦めてほしくない」




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