長編小説トップページへ
Shinobu Presents


机の上には楽譜が散らばっていた。
マスターした曲がいくつか。
そして、これから弾こうとする曲達。

どれも、真一君ならきっと上手く表現できる曲達。

第三十二話 「不安。別れの。」

土曜日の朝。
学校がなくても朝はいつもの時間に目が覚める。私の部屋はとても静かで、楽譜を机から取り上げる音ですら聞こえる。
真一君が、音楽を専門にしたい気持ちはとてもわかる。私も今、楽譜を見るのが好きで仕方ない。単なる音符の連なりだけれど、これを書いた人の気持ちが分かる気がして。
一枚のCDをラックから取り出して再生する。小さいスピーカーから、聞き取れるかどうか程度の小さい音でピアノの音が鳴り始める。
ここ一ヶ月でピアノ曲のCDが特に増えた。よく考えると、音楽を初めて教えてもらったのは真一君からだった。彼が弾いていた曲から音楽に入った。
それほど、彼の音は綺麗だった。私もそれを弾いてみたいと思った所からピアノが始まった。弾いてみてわかる彼の気持ち。彼がどれだけ音楽が好きなのか。聴いているだけの時よりずっと身近に感じられる。
だから。彼が本当に音楽をやりたくて、東京で勉強したいという気持ちもわかる。長野を離れてでも、私達と離れてでも、音楽を好きでいたいという気持ち。
けれど。
それはすぐに別れを意味する。彼の音を聴くどころか、彼の顔すら見えなくなる、という意味だった。それも、彼の言う編入が決まれば、三年になる四月から移る事になる。もう、あと1ヶ月程しか時間が残されていない。
小さく、首を振る。あまり考えすぎると気が滅入り始める。ピアノの音に聴き入る。
曲が終わりに近づいた頃、突如机の上に置いた携帯がシンプルなメロディーを鳴らし始めた。思わずピアノの世界から引き離され、携帯に目をやった。
画面が光り、そこには「栞」という名前とその番号が通知されていた。最近買ったばかりなのでどうもこのシンプルなメロディーには慣れられない。土曜日のこんな早い時間に栞が起きているという事自体が意外だったけれど、この時間にかけてくるというのも戸惑いを感じる。
CDを止め、携帯に手を伸ばす。出てみると、栞は意外にもハッキリとした声をしていた。
『ごめんね、朝まだ早いのに』
「良いよ、どうしたの」
『真一の話、聞いた?』
「東京の話?」
「あ、知ってた? 私、昨日の夜中に、敦司から聞いて初めて知ったんだけどさ。ちょっと驚いちゃって…」
私も受話器を当てながら頷く。栞でもこれは驚くだろう、真一君がいきなり東京だなんて。
「あのさ。ちょっとどっかで話しない?」
「良いよ、どこかの喫茶店行く?」
栞は彼女にしては珍しく、焦った口調をしていた。私が彼女をなだめる役になるのは、いつもとは逆だった。私は不思議と落ち着いていて、受話器を置いた後も、まるで学校へ行くかのように外出の準備をしていた。
窓の外を眺めると、もう雪もなくなり始めている。少しずつ、暖かくなり始めている。春がそこまで近づいていた。本当に春を迎える頃、彼はどこにいるんだろうか。
外に出てみると、室内から見ているよりずいぶんと寒く、吐く息も白い色をしていた。
彼女と待ち合わせをしたのは長野駅の傍。家からはバスに乗って行く。
バスから見る景色も、土曜日の朝という事もあって、とても寂しい。誰もいない道を一人で走るバスが小さく揺れる。長野の駅に近づくにつれ時間も過ぎて、窓の下の人と車が増え始める。
バスを降りた頃には少し気温も上がり、家を出た時ほどの寒さはなかった。
冷えないように両手をコートのポケットに入れて大通り沿いを歩く。まだ閉まったままの百貨店を横目に。反対側の車線ではさっきのバスが私を抜かして走っていく。
こんな早くに長野駅前を一人で歩くのは初めてかも知れない。もう半年…弱だろうか、長野にいるけれど、それでもまだ知らない事が多い。こんなに静かな街を見た事すらなかった。
こんな時、やっぱり自分は東京にいたんだなと実感する。
ここに来てから何度東京を振り返っただろう。別に帰りたいとは思わない。あの頃が良かった、とも思わない。けれど、自分にとって良い意味でも悪い意味でも大きい場所だったとは、思う。
ため息が白い。
すぐに昔を思い出して鬱になるのは悪い癖だと思う。ただでさえ今から栞と話をするのに、話す前から暗くなりたくはない。気を取り直して足を速める。
約束の喫茶店はすぐそこだった。通り沿いが大きな窓になっていて店内がよく見える。窓に向かうカウンターの隅に観葉植物の葉をいじる栞が座っていた。私に気づくと軽く手を振る。私もそれを返してからガラス戸を開けて店内へ入った。
中は暖房がよく効いていて、栞の隣に着く頃にはもうコートが暑くなり始めていた。
「ごめんね、いきなり呼び出して」
「ううん、構わないよ」
コートを観葉植物の後ろにかけ、隣のカウンター席に座った。注文を済ますと、わりと早くにコーヒーがやってくる。
「驚いたよね、真一の話」
「うん」
私はコーヒーを口にしながら返事を返す。すると彼女はすぐに話さず、二人の間に少しの間ができた。
「…意外と落ち着いてるよね」
「真一君の気持ち、少しわかる気がするから」
「でもさ」
彼女は身体を乗り出して、私とコーヒーの間に割り込んだ。
「下手したら、もうこの3月から東京の学校へ行っちゃうんだよ? 3年なのに長野からいなくなるんだよ? そのまま東京の音大へ受かったら? もう帰ってこないかも知れないんだよ?」
彼女はいつになく真剣に語っていた。むしろ、私の方が冷たい位の反応をしていたのかも知れない。私が何も言わずにいると、彼女は乗り出した身体を戻し、手元のココアに唇を付ける。
「どうしたのよ、未帆。ちょっと変よ」
「自分でもわかってる」
そう、自分でもわかってる。真一君ともし離れる事になるとしても、それは大学が離れる事でしかないと思っていた。なのに、それが一年も早く、三年になる段階で東京の音楽学校へ行ってしまうなんて考えてもいなかった。
「でも私達にはどうにもできないよ」
自然とその言葉が出ていた。私がどう言ったところで彼の人生だから変えるなんて出来るだろうか。その言葉が私をここまで落ち着かせていたのかも知れない。
彼女も、少し頷きながら黙り込んだ。私と同じ事を考えたのかも知れない。
「…しょうがないよね。彼なら試験も受かってるだろうし…」
「え…、どういう事?」
私が尋ねると、彼女も意外な顔をしながら私を見た。
「え、知らない? 今真一が東京行ってるって」
彼女の言った直後、私達の間にしばらくの間ができた。全くそんな事知らなかったし、彼女も当然私が知っていると思っていた。
「音大の専門学校、結構良い所らしくて、その入試みたいなのが今日あるんだって。それで今日東京で試験受けてるはずだよ? 電話…なかった?」
小さく首を横に振る。ただ、私に知らせてくれなかった事よりは、むしろ彼の置かれている状況の方が気になった。全てがわかると自分の事ではなくとも、不安が生まれては溜まっていく。
コーヒーを口にしてイスの背もたれに背をあずける。ため息が出る。
「そうだったんだ…」
彼が私に何も言わない理由がわかるような気がする。私もあまり真一君に迷惑をかけたくない。好きでいるからこそ、逆に彼には負担をかけたくない。私が同じ立場なら、やっぱり真一君には電話しなかったと思う。
「別に真一、未帆に電話しなかったのって…」
「いいよ、わかってるし。私も多分同じ事すると思うから」
そう言って、カウンターの向こうのガラスを見つめた。その奥の景色は明るく、日の光が残った雪に跳ね返ってまぶしい。こうしている間にも彼は悩んでいるのだろう。
私はどうするのか。彼は道を決めているけれど、それすら私にはわからなかった。
どうすれば良いのか。

彼のために、何ができるだろう。
そして、私は、どうしたいんだろう。


Shinobu Presents

第三十三話へ/長編小説トップへ戻る

桜舞う雪道を-

All the story and Web Design Created By-Shinobu-