Shinobu Presents
私の指が生まれ変わったような、そんな音がする。 第三十一話 「変わりはじめる。そんな時」 以前にもこんな事があったような気がする。朝の音楽室。まだ誰もいない部屋で一人、ピアノに指を任せる。初めはただ単に触ってみたい、そんな欲求だった。けれど今は、こうして毎朝ピアノに触れないと落ち着かない。何か一曲弾かないと落ち着かない。 それ程、好きになっている。 音楽室というのはどこの学校でも同じような物で、ここの音楽室も、東京にいた頃のそれとよく似ている。自然と昔の事が思い出される。 中学に入ってすぐ。バスケを始めた。上手くなった。けれど、何かが違った。そして辞めて、受験が近づいて、気が付いたら一人になっていて。おじいちゃんの具合が悪くなって、高校へ受かって、生まれ変わったように楽しくて、遊んでばかりで、そして長野へ引っ越して…。 気が付いたら、いろんな所で変わっている。何度か、自分が変わる点があった。 それがいつなのかは気づかなかった。こうして後から思い出す時にわかるだけ。 頭はいろんな事を考えていても、指は自然と動いている。始めたばかりの頃のように、意識しないと動かない物ではなくなって来ている。こうしてだんだん自分がピアノの中に入っていくのは悪くない。 むしろ、もっと早くにこの世界を知っていれば。 最近そう思う。 ピアノの演奏を終えたのは一時間目が始まるギリギリ前だった。 音楽室を出て、自分の教室へと向かう。この冷たい廊下を歩く道で、自分がピアノの中から現実世界へ帰ってきたんだなと、実感する。他のクラスのざわめき、廊下ですれ違う生徒。音楽室から教室までの道のりがとても自然な物に感じられるようになっていた。 いつもと変わらない風景。この中でもし違う物があるとすれば、それは午後の懇談しか考えられなかった。 今日は進路の相談が午後からある。 まだ二年とは言え、もう2月。学年の終わりが近い。自分達がどの道へ行くのか。それを担任と懇談する日だった。 午後になると急にクラスの中がそわそわし始める。午後は全授業が自習になる。その間に一人ずつ懇談で呼ばれては職員室へ。一応自習という形は取っているけれど、実際は雑談をして待っているだけになっていた。けれどその雑談の空気もどこかいつもより落ち着きがない。 やっぱりみんな不安なんだろう。自分がどうなるのか。私もみんなと同じ。まだ何も決まってはいない。 隣に座る栞はそんなクラスの落ち着かない雰囲気を眺めながら私に尋ねる。 「未帆はどうすんの?」 彼女の言葉に、私は自分の机に頬杖をついたまましばらく考える。やっぱり進学校なんだから、普通に考えれば大学、だろう。別に反対もない。けれど、本当にそれで良いのかどうかは考えてしまう。 「まだ、決め手がなくて」 栞も頷いた後は、また何か考えるようにクラス風景を眺める。 「栞は?」 「私は、大学に行くよ。東京か、京都か、その辺りで考えてる」 「そうなんだ」 私は頷きながら、窓の外に目をやる。彼女は出来る。本当に出来る。彼女の成績から考えると長野の中で収まるレベルじゃないのはわかっていた。 けれど、こうして自分の目の前の人から東京という地名を聞くと、そういう選択肢もあるんだなと実感する。少なくともどの大学に行くにせよ、もう私達は同じ学校じゃなくなるんだな、とも。 私の考えはまだまとまっていなかった。 それを懇談で担任に伝えると、そんな人が多かったのか意外とあっさりと受け入れられ、早めに相談するよう言われただけだった。むしろ長かったのは栞の方だった。後で聞いてみると、どの大学が自分に合っているか、何をやりたいか、で決めきれないんだそうだ。 懇談が終わり、各自に帰る事が出来るようになったのはいつもより少し遅い時刻だった。もう空が赤くなり始めている。窓枠の影を落として赤い光が廊下に射し込む。 「どうする? もう帰る?」 栞が教室を振り返りながら尋ねる。私は少し考えた後、首を横に振った。 「真一君に、会いに行こうと思う。どうするのか聞いてみたいし」 彼女もその答えを聞くと、軽く頷いて先に帰った。彼女がいなくなった廊下を反対方向へ歩き、彼のクラスへ向かう。赤い陽がまぶしい。もうすぐ空の色も暗くなる。 「珍しいよね、こっちのクラスに来るって」 およそ一ヶ月ぶりの彼の最初の一言はこれだった。 彼とは、最近あまり会ってはいなかった。生徒会室へ行ってもあまり会う機会がなかった事と、進路の関係で彼があちこちに呼ばれて出ていく事が多かった事がその理由だった。 別に避けていた訳ではないけれど、たまにすれ違う以外でこうして話をするのは本当に久しぶりだった。 「ちょっと相談したい事あって」 彼も軽く頷くと、私達はそれぞれの鞄を持って学校を出た。外にもまだ生徒はずいぶん多く、その中に混じって駅まで歩く。 一ヶ月。別に長いとは思わなかったけれど、こうして時間が間に入ると、どこか変わったような、そんな気がしてしまう。 「進路、どうする?」 彼が言った。私が先に聞こうと思っていた言葉。私は少し悩みながら、結局栞に返した言葉と同じ答えを返した。 「まだ、決まってなくて。真一君は?」 礼儀のように、挨拶のように、何も考えず聞き返す。しかし、彼の答えは挨拶のように簡単には返ってこなかった。彼は、言葉を探して辞書をめくるように、言うべき単語を探していた。しばらく言葉を待った。その間何も言わない私も意地が悪いかも知れない。 「音大に、行こうかと思ってる」 待っている間、いろんな予想が頭をよぎった。けれど、音大という選択はその中にはなかった。 「もちろん、親は反対してるけど」 「音大って、この辺りには…」 「ない、よね。だから東京方面になると思う」 東京。今日この言葉を聞くのは二人目だった。かつて自分の住んでいた街に友達が二人も行くというのは、少し複雑な気分だった。 私達の歩く速度は自然と落ちて、他の生徒達が徐々に私達の横をすり抜けていく。道は広くなり始め、駅ビルが遠くに見え始める。 「音大を受ける事になったら、授業はどうするの?」 「それ、なんだよ。最近もめてるのが」 彼もどこか声が重い。その声だけで、少なくとも順調に行っていないのがわかる。 「ピアノとかがテストであるんでしょ? 家で練習とか?」 思わず視線が彼の指先へと向かう。鞄を持つその手は相変わらず細くて、鞄を持つだけでも支えきれるのだろうかと思えてくる。彼はそっと首を横に振り、空いた手で「全然」というレクチャーを見せる。 「自分一人じゃ良い練習はできなくて」 少しあきらめの入った声がため息と一緒に漏れる。こんな彼は初めて目にした。誰もが悩んでいる季節だけれど、彼のそれは私達よりずっと大きい物のようにも見えた。 信号が赤に変わり、私達は足を止める。 後ろには私達と同じように駅に向かう他クラスの生徒達。車が走り始め、私達の前の景色を勢いよく横切っていく。車の通り過ぎる音だけがつながり、私達の間には言葉がなくなる。 「長野にいたままじゃ、上に行けそうにないんだ」 彼が、つぶやくように言った。一瞬、その言葉の意味が本当にわからなかった。 彼を見ると、その目は、コップを割った子供のように、どこか後ろめたい不安さを持っていた。 「それって…」 「長野だと、本当に上手い先生が見つからないんだ」 彼はそう言い切った。まるでそう言い切る事で自分を納得させているように。そして私にも迷いを与えないように。 私は、ある程度その先の言葉を知っていたのかも知れない。 車の音が止まる。目の前の景色から動きがなくなった。 「東京の音楽の専門学校に、…四月から、編入しようと思ってる」 信号が青に変わった。 けれど、とても歩き出せなかった。 Shinobu Presents
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