Shinobu Presents
真一君と二人だけでいる時間は、どこかに喜びがあった。 喜びから来る緊張感のような物もあった。 けれど、今の私にはそれがない。できれば二人にはなりたくはなかった。 何を話して良いのか、わからない。 昨日の話を聞いてしまったから。 第三十話 「冷たい空気」 自転車置き場はよく風が通る。私の横を通った風が後ろの彼に流れていく。 「寒いね」 彼が、隣のグラウンドを見ながらつぶやいた。もう誰もいないグラウンド。隅にはまだ白い雪が残っている。 「帰ろうか」 彼の言葉に、私はうなづいた。ただそれだけで、二人は歩き始めた。 二人並んで校門を出て、栞達の降りた方向と反対側へと歩いていく。いつも歩き慣れた道がはるかに長く感じられる。隣を歩く彼も何も話さず、二人の足音だけが同じように続いていく。 私はこうして、とまどっている。けれど、彼も私なんかに話した事を後悔しているのかも知れない。 何も話せないまま、ただ二人街を歩く。学校のあった家ばかりの場所から、駅前へと風景が変わって、人通りも多くなる。車がまだ少し雪の残った道を行き交い、それに沿った歩道では、様々な人がすれ違う。商店街のせいもあり、道を行く毎に並ぶ店によって音楽が変わる。CDショップの前では洋楽が、パチンコの前ではうるさい音が。 こんなに音を真面目に聞いた事もない。神経はとても集中しているけれど、それを彼に向けてしまうと苦しい。彼が何を考えているのか、どう思っているのか。 それを真剣に考えると苦しい。だから隣にいるのに、自分の中で見えないフリをして、こうして音楽に集中する。しようとする。 こんな事が。長続きするはずないのに。 隣の彼を見た。彼も私を見て、目が合った。私は慌てて目線を離し、助けを求めるように自分の足下に顔を向けた。けれどそこには何もなく、時間が経つほどに余計私たちの間は遠くなるような気がした。 「今日…進路の話、してたよね」 ふいに口にしていた。もう何でも良い。話をする事でこの苦しい空気を抜け出したかった。もうこれ以上黙っている事はできない。 「どういうトコ、考えてるの?」 何か口にする事で彼を見る事はできた。これ以上彼から遠くなりたくはなかった。 「とりあえず…、普通に大学へ行くか、別の方向に行くか、考えてるよ」 彼の声も少しトーンが低かった。もう少し小さいと、街の雑音で消えてしまいそうな程だった。少し笑顔を見せてはいるけれど、それが本当に嬉しくて話しているものでないのはわかった。 「別の方向、…って?」 彼は右手を軽く挙げて、指を動かした。ピアノを弾く動きによく似ていた。 「音楽が少しできるから。その方向もあるかな、って」 私は大きく頷いた。 「良いね、そういう方面に選択肢があるって。私はまだ…特に考えてないよ」 そう言った時、前から一人、子連れの女性が買い物袋を下げて私たちの間を通った。私たちは少し離れて避け、もう一度道に並んだ。けれど、それをきっかけに会話が止まってしまった。話す事がなくなってまた黙ったまま、信号のある交差点で立ち止まった。 もうこの大きな交差点を渡ると駅がある。駅に入ってしまうと、私たちは違うホームに別れる事になる。この何の言葉も浮かばない空気は息が苦しい。けれど、このまま渡りきってしまうと、もう彼とは話せなくなるような気がした。 交差点の信号が変わった。隣の彼は、そして周りの人達は歩き始めた。けれど、私の足は動かなかった。彼の背中と、その向こうの駅が一枚の写真になって目に焼き付くように。 彼は数歩歩いた所で立ち止まり、私を振り返った。何も言わないけれど、「どうかした?」と目が話していた。私は小さく首を振って、重い右足を踏み出した。 残った雪を踏みつぶす音がする。交差点を吹き抜ける横風がとても冷たい。肌が少し痛い、冷たい風が容赦なく吹き付ける。それが何か嫌な予感をかき立てて好きじゃない。 小さく吐いたため息は風に流されていく。交差点を、二人で並んで行く。 ある種の、もうどうしようもない諦めが漂い始めていた。コートの首元を少し引っ張る。自然と視線は足下へ向かった。駅が目の前にあった。結局何も話せなかった。 隣の彼を見ると、もう一度目があった。もう私は軽く笑って、小さく首を振るだけだった。 そうして定期を取り出そうとした。 すると、今度は彼が、私のように数歩後ろで立ち止まっていた。私も彼の行動がわからずにその場に立ち止まった。改札の傍で二人、じっと立ちつくしていた。きっと私はおかしな表情をしているだろう。私は、彼の思い詰めたような表情に、見とれてしまっていた。 「あの、さ。ちょっと言っておこうと思うんだけど」 私は小さく頷いた。 彼はしばらく黙った後、その口を開いた。 「僕は、栞も敦司も大事だと思ってる。未帆の事も、同じくらい、大事だと思ってる」 彼が言ったのは、これだけだった。私はずいぶんと待っていたんだと思う、次の言葉を。 二人でじっと、立ったまま何も話さずにいた。そして、どのくらい時間が経ったのか、思わず笑顔が飛び出した。そのまま、小さく笑い出してしまった。 「おかしいかな? こんな事言うの」 彼も少し笑っていた。私は下を向いたまま大きく首を振り、彼に感謝した。 「ごめん。でも、すごく安心した」 真っ直ぐに彼を見ている自分がいた。ほんの少し前と空気の色が全く変わっていた。駅を通る人がちらちらこっちを見て行く。けれど、私にはそれが全く気にならなかった。 「私、結構バカな心配を色々してた」 「僕もだよ」 学校の自転車置き場からここまで、ほんの数分の物がとても長く感じられて苦しかった。けれど、今はそれが昔の事のように思える、前にいる彼がいつもと同じに見えていた。 いつもと同じ景色。同じ駅で同じ空気。それがこうして立っているだけなのに不思議と心地よかった。 彼はふっと駅の電光掲示板を見上げた。そこには、私の乗る電車の時刻が近い事が示されていた。 「もう来るね」 私はそう言って、さっき取り出しかけた定期を握りしめた。彼も同じようにポケットに手を入れて探していた。 そんな彼に。いつもと同じだけれど、もう、少しだけ変わってしまった彼に言った。 「昔の事は、聞かないようにするから。気にしないで」 そう言って笑顔を見せて、私は先に改札へ走った。電車の時刻が近いのが理由じゃない。 本当は、少し気になっている、彼の昔の人の事。 けれど、それは聞いちゃいけない気がするし、この迷いを彼に見られたくなかった。例えそれが表情を通しての物としても。 だから、できるだけ長居せずに彼の前から離れて、ホームから電車へと駆け込んだ。 空気の抜ける音と共にドアが閉まって、私は力を抜いてドアにもたれかかった。とても複雑な気分だった。彼が私たちの空気を変えてくれた事にとても感謝している。でも昨日聞いた事を忘れる事は、多分もうできない。けれど、それを聞くのは失礼だし、私も今すぐに聞くのは苦しい。 それを、あの一言で表現して、ここまで走ってきた。 明日からは、何もなかったように彼と接する事ができるだろう。明日の私は、多分彼といられる事が嬉しいと思う。そうなれた事も嬉しい。 けれど、今は、複雑な気持ちだった。 Shinobu Presents
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