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Shinobu Presents


第三話「栞」


昨日は引越しのせいで珍しく体力を使ったせいか、夕飯を食べるとすぐに寝ついてしまって、気が付くともう朝の7時だった。
自分の部屋から見える長野の夜景を楽しもうかと思っていたのだけれど、それはもう後日の楽しみに取っておく事になってしまった。
朝はお父さんもお母さんも弱いので、私と豊だけが制服を着て勝手に学校へ行く事になる。豊はまだ近くの中学だから良いとして、私は少し遠い私立高校なので、家族の中でも一番早く起きて家を出なければならなかった。
適当にコンセントを入れてトーストを焼き、昨日動きはじめたばかりの冷蔵庫からバターを取り出して使ってみる。場所はおおいに変わってしまったけれど、やっている事は東京にいた頃とほとんど同じだった。
家の中にいると、確かに荷物が散らかっているし、匂いが違うからもう自分が東京にはいないんだというのは感じられる。でもやっている事は何日か前と同じなせいか、どうも実感が湧いてこない。またマンションの一階にある自転車に乗って行くと高校のクラスのみんなに会えるような気がしてしまう。
本当はそんな事、あるはずないのに。
自分の使ったお皿を、まだ水を流した事もないキッチンの洗い場におくと、そのまま近くに置いた鞄を持って玄関へと向かった。家はまだみんな寝ているせいでひどく静かだった。近くに大型道路もないから、車の音もしない。
本当に静かだった。東京では絶対に聞く事のできない静寂。少し耳が違和感を訴えているような気さえしてしまう。
何日か前に着ていた制服と違って、今着ているのはネクタイがすこしきつい。首元をいじりながら鏡をのぞくと、なんだか自分が別人のように見えた。ただ制服が違うだけなのに。
今日は一日目という事もあって、少し大人しくしておいた方が良さそうなので、髪は後ろで束ねて、前髪を少し整える。大体自分の見た目がおかしくないのを確かめると、鏡から離れて、玄関へと向かった。
誰も起きていない家の中、静かに靴を履いて、音を立てないようにドアを開くと、そこから急に今までとは違う冷気が入り込んできた。それに少しためらいながら外へ出ると、そこはもうスキー場のゲレンデのような雪道だった。玄関から道までの数メートルがスポンジのようなふわふわの雪の道になっている。表の道はもう人が通ったせいもあり、雪もわりと固そうに見えた。
この誰も踏んでいない雪はおそらく昨日、私が眠っている間にせっせと積もってくれたものなのだろう。思わずそれに嬉しくなって、私ははりきって最初の一歩を踏み出した。

ずぼっ。

それが私の長野の第一歩だった。踏み出した右足はスポンジの雪にすっかりと埋まってしまって、ひざの辺りまで見えなくなっていた。長野の雪がこんなに深くて綺麗だとは思わなかった。じっと眺めると、雪の結晶まで見えるような気さえした。
しかしそんな感動を覚えたのは一瞬だった。
すぐに雪の中の右足が冷たくなってくる。一度玄関に戻って、スコップで道を作ってから通りに出るか、あるいはもうこのスポンジの道を走りぬけるか。
そんな事を悩む暇もなく、右足がどんどんと冷たくなってくる。もう私は半分ヤケになって、スカートの裾を持つと、一気に雪道をずぼずぼと間抜けな音を立てながら走り抜けた。除雪車の通った後の、雪の固い通りに出るとすぐに両足についた雪をはらったけれど、右足の靴下だけはひどく雪が染み込んで濡れていた。
なんだか、数メートル走っただけなのにどっと疲れが出てしまった。ため息を付くと白い湯気が姿を見せては消えてなくなる。ふと振り向くと、玄関からこの通りまでは真っ直ぐに変な足跡がついていた。
明日はもう少し考えた方が良さそうだ...。
長野に来て最初の門出がこれとなると、なぜか行く先が不安になってしまった。学校での第一歩はうまく行ってくれるといいけれど...。そんな事を考えながら、私はゆっくりと雪の積もった街並みを歩きはじめた。

私の家から学校までは、まずバスに乗って最寄りの駅に出て、そこから電車で長野の中心の方に出る。長野駅の次で降りて、しばらく歩くと、片道二車線の国道沿いに慶西学院の校舎があった。イメージと違って、ずいぶんと新しい感じがした。その学校と国道を挟んだ向かいにはコンビニやレストランが並んでいた。高校生が飛び出すのを警戒してか、校門を出てすぐの所に歩道橋が架けられていた。でも学校帰りにこういう所によるのは、高校によっては禁止している所もあるけれど慶西は大丈夫なんだろうか。
とりあえず時計を見ると時間は8時過ぎ。授業開始まではまだまだ時間があったけれど、今日は転校初日なので、まず職員室に行かなければならない。そもそも職員室がどこにあるか分かるのだろうか...。
そんな不安と一緒に来客用の玄関から入ると左手には事務室があり、その窓から見ていた事務の方が私の話を聞いていたのか、顔を見るなり呼び止められた。
事務室から出てきたのはおそらく40過ぎ程の女性で、職員室の前まで連れて行ってくれたばかりでなく、担当の先生まで呼んでくれた。おかげで難なく担任となる先生とも会えたし、校内をうろうろと迷う事もなかった。
私の担任となる先生は山岸先生という男の方で、年はもう定年間近と言える程だった。
ただその年齢に見合っただけの落ち着きや、優しさを持ち合わせていて、高校の説明やこれから先の話でも不安を感じる事はなかった。その後で校長先生の部屋に通され、それなりの励ましや期待の言葉を受けはしたけれど、どちらかと言うと校長よりは、山岸先生の方がはるかに印象的だったと思う。
その校長が嬉しそうに何かを隠しているように見えて、不思議に思った矢先、校長が口を開いた。
「今日はね、とても素敵な生徒が上野さんのために朝早くから来てくれているんです。紹介しましょうか。藤本 栞さんです」
言って、ホテルの案内のように軽く私の後ろの方を右手で指した。振り向くと、開きっぱなしの校長室のドアの前には私と同じ制服を着たひとりの生徒が立っていた。
笑顔で軽く頭を下げるその仕草からも、何かとても手慣れた印象を受けた。
「上野さんと同じクラスで、今は生徒会の副会長をしているんだ。何か困った事があったら彼女に尋ねなさい」
彼女の横にいた山岸先生も、校長もなぜかやけに笑顔だった。よほど彼女に信頼を寄せているのだろうか。校長の長話に付き合わされているうちに、授業開始のチャイムは鳴ってしまったけれど、今日は別に気にしなくてもいいらしい。授業に出たければ次の時間から出ればいいと言う事で、とりあえず藤本さんに校内を案内してもらう事になった。
「失礼します」
言って藤本さんと二人で出て校長室のドアを閉めると、彼女の口からため息が漏れた。
「あの校長、話長いでしょ? いつもあんな感じだから、朝礼のある日は遅刻してきた方がいいよ」
と、笑いながら少し癖の髪をいじる。彼女と私は授業中の静かな廊下を歩いて行った。
「昨日、敦司に会ったんだってね。本人から聞いてる。あいつ、暇になったら電話してくるのよ。未帆はさ、この学校は今日が初めて?」
突然出た自分の下の名前に驚きながらも、なんとか質問の答えを口にする。
「うん。昨日引っ越してきたばっかりだし。えっと、栞...でいいのかな」
「いいよ、もう敦司で慣れてるでしょ? 下の名前で呼び捨てにするのって」
なんだか、敦司君の知り合いというだけあって、栞も雰囲気がすこし彼に似ている。友達同士だと、やはり知らないうちに似てくるものなのだろうか。
廊下で話しているとさすがに響くので、私達は本館を出て、雪の庭を通る屋根付きの通路を歩いて、つまらない話に盛り上がっていた。どんな音楽聞くとか、変な友達がいるとか、テストがやたらと難しいとか。いつか本当に東京にいる頃のように、楽に喋っている自分がいた。
「この学校で一番変なのはここかな」
と言って栞が軽く庭の向こうを指差す。通路がすぐ先で左右に分かれていて、左に曲がって行く通路は大きな教会へと続いていた。
「校内に教会があるの?」
「一応、キリスト教系の学校だからね。毎週土曜日の3時間目は宗教の時間があって、何クラスかがまとまって、あの教会で牧師の講義を受けるの。キリストはどんな人だとか聖書の歴史とか。興味がなかったら間違いなく寝れる授業ね」
「栞も寝てるの?」
「私は数学やってる」
と言って、ぱたぱたとその手を振る。なんだか、校長先生に紹介された時の言葉からは、すごく真面目な優等生っぽい人かと思ったけれど、実際の彼女の話を聞いていたら全然そういうのとはかけ離れていて、妙に安心してしまった。
「栞って意外と、雑な所がない?」
「あ。すごい、大当たり。私、教師の前では普通の子ぶってるけど、実はすっごくいい加減な性格なのよね。未帆って結構勘がよくない?」
栞は嬉しそうに私の前に出て、後ろ向きに歩きながら話を続けた。左右に曲がる角の所で、私達は行く所もないので、そこの壁にもたれながら無駄話ばかりしていた。
雪の積もった庭はとても静かで、そこは東京とは違う何かがあるような気がした。




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