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Shinobu Presents


第二十九話 「いつもの自分達」


ピアノの単音が響く。
寒い朝の音楽室。昨日聞いたのと同じ音が静かな部屋の中にだけ、鳴っては消える。
真一君に初めてピアノを聴かせてもらってから、何度かここへ通っている。誰もいない朝の音楽室。まだ何も弾けないけれど、こうして音を出して、その響きを聴いて、そして少しだけ練習もして…。
こうして黒いピアノの前に座っていると、何か苦しい事があっても忘れられる、そんな気がした。救いを求めるようにここへ来て、そしていつからか、この音が好きになっていた。

初めて買った楽譜を立てて、指を動かす。やっと指が鍵盤に馴染み始めて、それなりの音が出せるようになって来ていた。
けれど、それとは別に。今日は何故かとても綺麗な音がしていた。人差し指を置いてみる。弾いている指は同じでも、いつもより遙かに澄んだ音がする。透明で、とても自然な音がする。

昨日の夜、真一君から聞いた言葉が忘れられない。栞が言っていた事の意味も、彼に何があったのかも。全てわかってしまって、逆に私の中から迷いが消えなくなった。
正直、どうして良いのかなんてわからない。好きだった人を亡くす事も、その後生きていく事も。私には想像もつかない。そんな人を想う自分も、わからない。
どんな言葉をかけて良いのかすらわからず、何も言えなかった。

もう一度、片手でメロディーを弾いてみる。やはり音の澄み具合が違う。まるでコンサートに行った時のような、本当に綺麗な音がしていた。
今まで、数々の人が残してきた名曲はこんな心境の中で生まれたのかも知れない。悩み、苦しんで、迷って、その伝えられない気持ちをピアノに乗せるからこそ、その曲が人々に響く名曲になったのかも知れない。

音楽室の前を人が通っていく。
もうそんな時間になっていた。一日が始まる。真一君にどんな顔をすれば良いのだろう。
それすらわからないまま、ピアノを閉じ、その部屋を出た。


普段の授業はいつもと何も変わらない。私がどう思っていても、それとは関係なく授業は進むし、みんなの雑談も繰り返される。栞もいつもと同じように振る舞い、敦司君も相変わらずだった。
ただ、授業後に生徒会室へ入っていつもと違ったのは、真一君がいない事だった。それが私には妙に気になっていた。誰にも言わないような事を私に話してしまって後悔しているんじゃないか、そんな事まで考えている。
鞄を下ろして、生徒会室の隅にあるポットでお茶を注ぐ。こうして何かをしていないと、とても落ち着かなかった。
「未帆、どうした? 何か無口だぞ?」
敦司君が漫画を片手に不意に尋ねた。私は軽く笑って首を振るだけで何も言えなかった。そうして、私が全員分のお茶をそろえた時に、ドアが開いた。そこには彼がいた。
いつもと同じ笑顔で、同じ仕草で、軽く挨拶だけして入ってきた。
「なあ、真一、もうすぐ進路相談だろ? お前、どうすんだよ」
敦司君が漫画を置いて、身を乗り出した。真一君も「そこで悩んでるんだよ」と言いながら、鞄を下ろし、彼の隣に腰掛けた。
それはいつもと何ら変わらない光景の一つだった。私は手近のイスに座り、お茶を手にしばらくじっとその光景を眺めていた。
いつもと同じ。だけど、そこには真一君がいないかのような感覚があった。目の前で喋っているのに、遠い。昨日の夜の表情、雪の中で話をする彼の表情が焼き付いて、今の彼が嘘のように見えてしまう。
その笑顔も、声も。
まるで映画館でスクリーンに映る彼を見ているような、そんな感覚だった。けれど、まるで昨日の事などなかったかのように時間はすぎていく。映画館でじっと画面を見るように、私は何も喋れなかった。
そんな中、栞が私の隣に移り、同じように真一君達のやりとりを眺めて言った。
「何か変わった事でもある?」
彼女の声は、今まで同じ映画を見てきたように、ストーリーを知っているように聞こえた。そう思える自分は助けを求めているのかも知れない。
けれど、彼女は昨日の事は知らない。
「何も。今日ちょっとボーっとしてるみたい」
「そうね。何か変」
そう言って笑顔を作ったきり、彼女もスクリーンへと顔を向けた。真一君と敦司君は、自分たちの将来の事をしきりに話していた。その向こうの窓では、空の色が少し変わり始めていた。


「敦司」
栞の声が室内の会話を止めた。彼女は立ち上がると、鞄を手に取った。
「今日、自転車乗ってきてるよね? 寄りたいトコあるんだけど、乗せてってよ」
時計はもう6時前を指していた。敦司君も壁掛け時計を見上げると、OKの返事だけをして思い出したように立ち上がった。
突然の事だった。私は自分が考え事をしていたせいか、帰る空気が出来ているのに、一人座ったままだった。それに気づいて急いで鞄を手に取ると、敦司君が開けたドアから冷たい空気が流れてきた。
構内の自転車置き場には敦司君の自転車がぽつんと置いてあり、他の人達はもうほとんどが帰ってしまっていた。むしろ、この時期に自転車で来る彼の方が珍しいのかも知れない。
その珍しい自転車の後ろに栞が乗り、敦司君が鞄を前カゴにまとめている。
「じゃ、悪いけど先に帰るね」
栞は敦司君の肩を急かすように叩き、私に一度軽く頷いた。私はその意味がわからずにいると、敦司君は手で挨拶だけしてこの雪の残る道を勢いよくこぎ始めた。
彼と栞の乗った自転車が置き場を出て、坂を下っていくのを見送って初めて真一君が口を開いた。
「何だったんだろうね」
彼もよくわからないと言った顔で二人の下った坂を眺めていた。
私は彼の方を振り向いて初めて自分のいる場所に気づいた。
私たちは二人だけになってしまっていた。彼はまだ二人の出ていった道を眺めていた。



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