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Shinobu Presents

第十六話「おじいちゃん」


「えー、まず一行目、I visited the place,where I were..は、以前説明した関係詞を使って..」
 わりと暖かい教室の中、先生の声が続く。けれどこれだけ暖かいと、みんな起きているはずもなく、二つ前に座った栞ももちろん爆睡している。私もこれだけ暖かいとかえって気持ち悪くなりそうで、すぐ隣にある窓にそっと手を触れた。とても冷たい感触が心地よい。
 手の甲を当てて雫を取り、窓の外を眺める。大雪が来そうな不安な曇空だけど、雪はまだ降っていない。この一限目が終わったら誰かが空調の設定温度を変えるだろう。そうすれば二時限目からは快適に授業が受けられるはず。
 英語の先生は思い込んだらそれっきりで、授業が始まると本当にそれに夢中になる。邪魔をすると怒るので誰も空調の温度を変えてほしいとは言えないのだ。生徒がみんな暑苦しくしているのにも気付かないのだから、このクラスの英語の成績が上がるはずもない。
 私もあまり聞く気力はなくて、みんなと同じように違う事を考える。私の場合、窓際なので、冷たい窓から少し冷気が染み込んでわりとまだ涼しい方なのかもしれない。とりあえず、する事もないので外の景色を見ていると、割と近い所にいくつかの白いビルが見える。あんなに高くはないけど、おじいちゃんの入院していた病院も確かあんな感じだったと思う。前回行った時はおじいちゃんはずっと眠ったままだったし、その後は中間テストなどが重なったせいもあって、もう2.3週間は話をしていない。少し遅くなるけど、今日あたり学校が終わってから行ってみようかと考えていた。
 そんな時だった。
 閉じたドアをノックする音がして、先生の英語の授業がストップする。先生は機嫌が悪そうにドアを開けると、そこには担任の田中先生が立っていた。彼は英語の先生に謝った後、クラスを覗いて順に端から見ていき、私の所でその目を止めた。
「上野、ちょっと」
 と言って手招きをする。私は不思議に思いながら、みんなの視線の中、先生の待つ廊下へと出た。ドアは開いたままなので、前の方の席に座っている子なんかは私を覗きこんでいた。
「上野、さっき電話が入ったんだが..。落ち着いて聞きなさい」
 先生がひどく深刻な顔をして言った。それだけで大体は覚悟が出来てしまった。ひどくだるい一限目だったけれど、こういう所ではずいぶん頭がさえていた。
「どうやら、おじいさんの様子が..危ないらしい。病院へは、教頭先生が車で送って下さるから、すぐに駐車場に行きなさい。もう待ってて下さってるはずだから」
 普通、そういう話を聞いたら驚いて取り乱すのかもしれない。でも何故か..ある意味ではもうずっと昔に覚悟していたのかもしれないけれど、どちらかと言うと、実感がわかないと言った方が良かった。ただ先生に言われるままに、駐車場へと全力で走るだけだった。その間、一体自分が何を考えているのか。よくはわからなかった。 靴を履き替えて、正門の隣の駐車場へと出ると、雪の積もった白い駐車場に一台だけエンジンのかかった車があった。転ばないように走っていくと、中にいたのは教頭の田中先生だった。彼は窓ガラス越しに、早く乗るように手で合図をし、
私はそれに従って助手席に乗り込んだ。
 車が出発すると教頭先生は私を落ち着かせようと、いつもの朝礼とは違う穏やかな口調でいろいろと話をしてくれた。内容は覚えてはいないけれど、そんな見た事のない教頭先生の言葉がとても印象深くて、戸惑いと落ち着きとが一緒にやってくるような感じだった。
 病院の入り口の前に車が停まると、私は教頭先生にお礼を言い、すぐさまおじいちゃんの病室へと走った。エレベーターに乗るのも遅いと思ったので、四階まで階段で走って昇った。汗も関係なく、四階に着くとおじいちゃんの部屋に急ぎ、勢いよくそのドアを開けた。
 中には医師の先生や看護婦さん、そしてお母さんと豊が来ていた。お父さんはまだなのだろうか。
 みんなの向こうには何か透明のマスクをつけたおじいちゃんが眠っていた。私はそこにいた人を押しのけて、おじいちゃんの横に両膝を突いて座り、そのしわしわの右手を取った。
 私のすぐ隣にある大袈裟な機械の心電図はきちんと波を打っていた。それにまだ手には人の温かさがある。手後れではなかったというのでまず安心する。そして直後にこの人はすぐにいなくなってしまうという、焦りと不安。
 しばらくこうして、ずっと手を取って、じっと見つめていたけれど、いつものようにおじいちゃんは昔話を言ったりはしなかった。
 そうしている内にすぐにお父さんがドアを開けて入ってきた。ネクタイもそのままだから、仕事場からそのまま来たのだろう。
「先生、どうです、父は..」
 お父さんの口から父という単語は初めて聞いたような気がする。先生は沈んだ声でそっと言った。
「おそらく、あと半日持つかどうか..」
「..そうですか..」
 お父さんはそう言って、私のとなりに来て、おじいちゃんの顔を見ていた。右手は私の頭にそっと添えられた。
 おじいちゃんの様子は静かで、心電図がなければいつもの眠っているだけのおじいちゃんと区別はきっとつかなかったろう。
 ただ、今は先生の言葉とは裏腹に、心電図は一定のリズムを取ってきちんと動いている。とてもこれから止まるようには見えなかった。この部屋にいる誰もが同じ姿勢のまま、じっと待ち続ける。それはまるで早く死ぬのを待っているかのように。
 でも私にはこの心電図が止まるようには思えなかった。またしばらくするとおじいちゃんが目を覚まして、昔話を聞かせてくれるような気がした。
 時間だけが過ぎていく。ずっと。..ずっと。
 先生がまず立ち上がりその部屋から出て行った。緊急のオペが入ったそうだ。私がここへ来てから一時間くらいしてからか。その頃には部屋の外にも親戚が来はじめたようで、お母さんとお父さんはその応対に、病室を出て行った。しばらくは豊は私と同じ部屋にいたけれど、この病室の雰囲気が駄目らしく、「ごめん、外にいるから」とだけ言ってやはり病室を出て行く。結局、この部屋には私と看護婦さんだけが残った。看護婦さんは部屋の隅で何かの書類を書き込んでいた。
 いつまでもその手を取って、命が消えないように見守っていた。
 消えないでほしい。こんな心電図なんか関係なく、この手の温かさをなくさないでほしい。そう願って。


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