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Shinobu Presents


第十四話「この音が話してくれる」

三階に上がって、右手。一番奥から二つ目の部屋が音楽室。
少し音楽室にしては狭いようだけれど、音楽の選択者が少ないから、なんとかそれでもやっていけるのだろう。今日はテスト前だから、放課後はコーラス部も吹奏楽部もいない。とても静かな三階の廊下をゆっくりと歩いていく。
窓の外には少し雪がちらつきはじめていた。決して大雪というわけじゃなく、紙ふぶきが舞うように、弱々しい白が降っていた。
それを見ながら、耳を澄ませると、自分の足音しか聞こえない。雨と違い、雪には音がない。雪が雑音を全て消してくれているかのようにも思えてしまう。
雪の向こうに見える棟には、いくつか人の残っているクラスはあるけれど、大体はテストに控えてみんなすぐに家に帰ってしまったらしく、どこも電気が消えている。珍しく人のいない校舎というのを見た気がする。
音楽室の前についたけれど、音はしない。誰かいるのかわからないので、そっと音を立てないようにドアを開ける。中にはいくつかの丸イスと譜面台が置きっぱなしで、その奥には壁際にオルガン。そして、何よりも大きな窓際には、曇り空の光を受けて黒光りするピアノがあった。
私は中に入りそっとドアを閉めて、自然とピアノの前にまで足を運んでいた。ふたはされていなくて、白と黒の鍵盤が綺麗に並んでいた。赤い埃避けの布は近くの丸イスにかけられていた。窓際の鍵盤が明るく、高音の側が光も弱くて少し暗くなっていた。
私は楽器には本当に疎いから、「猫踏んじゃった」すら弾けないし、ドの音がどの鍵盤なのかすらわからない。けれど、なんとなく指をやると、小さな高い音が一つだけ響いた。
こうして一人で、こんなに静かな所でピアノの音をじっくり聞くと、本当にピアノというのは良い音がするのがわかる。もしこの音の良さというのが、小学生くらいの時にわかっていたら、是が非でも習いに行っていただろう..。
今となってはもう遅い話だけれど。
鍵盤から指を離すと、後ろのドアの開く音がした。振り向くと、そこには楽譜をいくつか手の中に持った真一君がいた。
「あれ、何で音楽室にいるの?」
真一君は昨日の事はなかったように、いつもの口調で話しながら、ピアノの前にまでやってきた。
私は言うべき事はわかっていたのだけれど、どう言えばいいかわからずに、そのまま黙り込んでしまう。
彼は鍵盤の前に座ると、手に持っていた楽譜を譜面台に並べていく。
「この間買った『主よ、人の望みの喜びよ』の楽譜、隣の資料室にあったよ。無断コピーすればよかった」
と言いながら、鍵盤の音をひとつずつ確かめていく。
「座れば?」
彼が近くのイスを見ながら私に言う。その言葉に、私はイスを手元に引き寄せてピアノの隣に落ちついた。
たまに響く小さな鍵盤の音の中、彼の楽譜を見つめる顔を見ながら、そっと、重い口を開いた。
「真一君..」
「..ん」
彼は楽譜から目を離さずに、返事だけを返す。黒いピアノの色と、彼の黒い髪がすごく近い色をしていて、何故か不思議な雰囲気が出来あがっていた。
「昨日..、ごめんなさい。あんなに冷たくして」
彼はその言葉に軽く笑みを浮かべながら楽譜から目を離し、そっと首を横に振る。
「いいよ、気にしなくっても。あんな事があったら普通は気が動転するから」
彼の言葉は素直に嬉しかったけど、あんな出来事をわりとあっさりと受け入れているのが私には理解出来なかった。
ここ数日の事なんて、普通に生きていたら滅多な事ではありえない。人を殴る事なんて。私は彼の事はほとんど何も知らない。なぜそんな事が出来るのかも。
「よく、喧嘩とか..あるの?」
思わず、口にしてしまった。きっと、不安から。彼が私に見せていない部分というのがとても怖いものの様に思えて。
「昔、ね。中三の時はよくあったけど、高校に入ってから一度も。あの日の事が三年ぶり..だったのかな」
彼は他人事のようにすごくあっさりと言って、ピアノの鍵盤に両手をのせる。曲はきっと「主よ、人の望みの喜びよ」だろう。私は曲が始まる前にもう一つだけ、彼に尋ねた。
「どうして、中三の時は喧嘩をよくしてたの?」
この一言に、彼は両手を置いたまま、横目で私を見た。彼は微笑みながらそっと首を傾けると、目線を楽譜に戻し、そして鍵盤を優しく弾きはじめた。
低音が綺麗なメロディーとなって、響いてくる。この曲は聞いた事がある。名前を知らなかっただけで、曲自体はとても有名なものだ。
真一君の、曲を弾く直前の仕草の意味が私にはよく理解は出来なかったけれど、そのメロディーは代りに何かを話すように、綺麗な旋律で私の胸にそのまま入り込んでくる。何の知識もないけれど、何故かとても胸の奥が苦しい。「切ない」という気持ちが一番これに近いのかも知れない。
『主よ、人の望みの喜びよ』
このタイトルをつけた人は天才かもしれない。たった一言で言葉に出来ない意味が数多く込められているのだから。おそらく、タイトルをつけた本人の気持ちも。
とても緩やかな、静かな旋律が音楽室に響き渡る。
曲を作った人は誰かを信じたかったのかも知れない。
ふいにそんな事を思う。真一君の横顔を見ながら。
彼の向こうの窓に見える雪はさっきと変わらず、遠慮がちに降り続ける。そんなに優しく降らなくてもいいのに。
曲は同じメロディーを奏でながら、いつまでも続いていた。ずっと。
彼に昔何があったのかは知らない。私なんかが知っちゃいけないような気もする。だから、もうこれ以上は聞こうとは思わなかった。
ただ、この曲を聞かせてくれただけで。それで良かったと思えればいい。
真一君の左手が止まり、低い音を響かせて右手もゆっくりと動きを止める。
弦の震えの中。そっと鍵盤から両手を離し、その曲は余韻を消した。
音楽室に、私一人の拍手が響く。彼は照れくさそうに目元をいじりながら、楽譜をまたしまいはじめた。
「..ありがと」
彼がそんな事を口にする。そう言いたいのは私の方だったのに。
私達は音の消えた音楽室の中、そっと立ち上がり、ピアノの鍵盤にふたをすると、誰もいない廊下へと出た。
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