Shinobu Presents
気がつくと自分の部屋にいた。夜はもうふけていて、窓の外は黒い空、そして街灯のオレンジ色の灯火。雪はまだ静かに降り続けていた。あの路地裏に降っていた雪と同じ。 彼が男を蹴る場面が目に奥にしみついて離れない。 できることなら信じたくはない。 けれど、人を傷付けるあの音..。あれがいつまでも胸の内側に残って鈍く重い。あの音を思い出すだけで何か自分が傷つけられているかのような錯覚にとらわれる。 いつも優しかったあの人が、目の前で本気で人を傷付けていた。それだけで、もう自分で自分の気持ちがわからずに泣き出してしまった。 あの時はもうどうしようもなくて、何が起こったのか本当にわからなくて、頭の中が完全に凍り付いていた。あれから..どれくらい経つのだろう。 部屋の壁にかけた時計をみると、針は夜の11時を指していた。もう8時間くらい前の出来事になる。それだけ時間が経つと、さすがに落ち着いて、一応ものを考える事はできるようにはなる。自分の部屋のドアの傍にはきちんとコートが掛けられていて、鞄は机の上に置いていた。けれど、あのスタンドに下げていた十字架が見当たらない。あれは..今日の朝、真一君と会うという事で張り切って..。 思い出して自分の胸を見る。そう。首にかかった十字架は胸元で綺麗な光を跳ね返していた。 この十字架に罪はない、それはわかっていても自然と力に任せてそれをむしり取り、鞄の上へと投げつけていた。十字架は机に当たって、小さな音と一緒に跳ね返り、椅子の背もたれに引っかかった。 正直に言うと。敦司君が喧嘩をしているのは確かにショックだったけれど、真一君程ではなかった。なぜ彼にだけそんなに嫌悪感が募るのか。 自分の中で真一君と敦史君とでは見方が違っている。前からそれは知っていた。でも今それをあらためて考えて、はっきりと自分の気持ちというものが見える。そして、それが消えていくのにも。 もう考えても辛い方向へ行くのはわかっていたから、自分から考えるのをやめる事にする。 力を抜いてそのままベッドに倒れ込むと、枕の柔らかい感触が伝わってくる。まだ寝るには少し早いけれど、心地よさが体中に広がって眠気がすっと広がっていく。もう考えるのも悩むのも心配するのにも疲れた。 このまま私をいつまでも眠らせてほしかった。そっと目を閉じると楽になれる。そんな気がして。 翌日は本当は仮病で学校を休みたかった。けれど、そういうわけにも行かず、結局いつものように学校の前の通学路を歩いていた。残った雪が踏み固められて、道を滑りやすい物に変えていた。けれど、今日は一人で歩く。昨日のように手を取ってくれる人はいないし、取ってほしくもない。 周りの人と同じようなペースで歩いていく。校舎の大きな時計が見えた頃には、何人かの知っている人達が歩いていたが、どうしても声をかける気になれなかった。後ろから、彼女たちの歩く姿をじっと眺めていた。 校舎の中もやはり寒くて、玄関の上靴もずいぶん冷たい。冷気を含んだ廊下にでると、そこには寒さの中で教室にいそく生徒の中に、一人だけ、じっと立ったままの人がいた。 ..真一君だった。彼は黙って私の方へと歩いてくると、数歩手前で止まる。私も心と裏腹に歩きだす事はできない。 「昨日は..ごめん」 私はしばらく何も言えずに黙り込んでいた。他の生徒達は皆、私達の横を通って階段を昇っていく。雑談が階段に響いて、私と彼の間の空白を埋める。冷たい空気が辺りを包み込んでいた。 「いいよ、もう..」 そう言って私は彼の横を通り、階段を小走りに昇る。彼を振り向く事もなく。二階に上がり、真一君が見えなくなって昇るペースを落として初めて、自分の胸元に目をやる。何日か前までは、彼にもらった十字架が制服の下に隠れていたけれど、今日は本当に何もなかった。隙間のできた胸のうちに冷たい空気が入り込む。 教室に入ると、暖かい空気が流れてきて、身体がほぐれていくようだった。見回すと栞の姿は目につかない。まだ来ていないようだ。 「あ、未帆。おはよ!」 恵美が教室の隅から小さな身体で明るい声をかけてくれる。私も今日は少し声を上げて挨拶を返した。クラスの空気はいつもと同じ。 けれど、席に着くと周りの流れに関係なく、みんなの声が薄い幕を通したように聞こえる。 窓から見える雪景色だけでも昨日の事を思い出させた。しばらく一人で席に座っていると、恵美が私の前の席に座って他の子も呼んでくる。大体は栞がいつもまとめ役になっているけれど、彼女がいない時は恵美がみんなを引っ張ってムードメーカーになってくれる。 彼女は栞とは違って、ずいぶんとトーンの高い声で話してくる。でも今はそれがとても心地よい。うなづいていると、周りの皆も話にのって、栞の欠けた独特の場ができていた。この中心になっている恵美の明るいテンポで話をふってくれる。私はそんなに暗い顔をしていたんだろうか。わざわざ彼女がここまで来て話してくれてる事はそういう意味なんじゃないだろうか。 私はそんな事に気を回してくれる彼女がとても好きだったし、うらやましかった。一時間目が始まるまで、彼女は私の傍で本当によく話が持つと感心するくらいにいろんな話を聞かせてくれた。栞が途中で教室に入ってきてはいたけど、それに気づいたのは一時間目が始まってからだった。彼女の方も、今日は話の中に入っては来なかった。 栞もひょっとしたら混乱していたのかもしれない。けれど、それでも私は思い出したくない一心で、授業がすべて終わるとその日は生徒会室にも行かずに学校を後にした。いつもずいぶんと遅くまでみんなと生徒会室で話してたりしてたから、逆に今日はずいぶんと空が明るい。このまま電車にのっても早く家に着くだけだというのはわかっていた。 駅前の賑やかさもまだ真昼のそれで、夜の空気は少しもない。ふと辺りを見回しても人の流れと雪の冷たさがあるだけだった。 どこか..行ける場所はないだろうか。こんなうるさい所にいつまでもいたくはなかった。静かな所を思い浮かべ、ふいにおじいちゃんの事が頭に浮かぶ。どうせ誰もいかないのだから、それなら時間のある日くらい行った方がおじいちゃんもきっと喜んでくれる。そんな事を考えて、今日はいつもと違う電車にのる事にした。見慣れない電車の景色はいつもより遠くて、今日はずいぶんと哀しげな物のように思えたのは気のせいだろうか。
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桜舞う雪道を-
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