キャラクターではなく、「人」を描こう
「勧善懲悪」という言葉を覚えておいででしょうか。
悪をこらしめ、正義を勧めるという物でしたね。子供向けのアニメではよく見られる構成です。水戸黄門などもそうですよね。
どちらも高視聴率を稼ぐ事がままありますが、それはテレビを通しているからこその結果ではないでしょうか。
これをそのまま小説では行うのは如何なものかと思います。
ファンタジーのストーリーの場合。正義の勇者が悪の魔王を倒しに行く。
現代ものであれば、例えば天才プレーヤーの主人公がライバル校の不良選手を撃破する。
なぜ、勧善懲悪ものをお勧めしていないのか。それは「わかりやすさ」です。
勧善懲悪ストーリーにおいては、善人はあくまで善人、悪人はあくまで悪人です。どこまで行こうとこれが逆転する事はありません。
ここが問題だと思います。
性格がはっきり二分化しています。
しかしよく考えてみて下さい。実際にそのような悪だけの人間など存在するでしょうか?
もちろんいるはずはありませんよね。どんな凶悪犯罪者であれ、昔は可愛い子供であり、人を愛し、前を向いていました
それが方向を変えた事には当然原因があるはずです。
勧善懲悪はそれを省き、あくまで悪い面のみ、良い面のみを描くため、問題があるという意味です。
その両面を兼ね備えて初めてキャラクターが人になります。
ではどうすれば、「人」を描けるのか?
それは両面を描き切るという事がひとつの手です。
例えば水戸黄門を例にしてお話しましょう。
水戸黄門にいつも出てくる悪の越後屋。あの越後屋の主人はいつも自分の私利私欲のために悪事を働きます。しかし。もし彼の息子が重い病を患っており、その治療費が莫大なため、息子のために金のなる悪事に手を汚しているとすれば? もし全ては息子への愛ゆえに、であったら?
貴方は越後屋主人を「悪い」と言い切れるでしょうか。
不正は許さないと思いつつも越後屋に味方したくなります。
黄門様も同じです。彼を懲らしめてしまえばその息子は病いで死んでしまう。
では黄門様と越後屋主人、どちらが正しいのか…。
シンプルに言えば、これが「人」です。
はっきりと白黒がつけられない。ここに人間らしさと奥深さが生まれます。
キャラクターではなく、「人」を描く2
人を描くもう一つの手段が葛藤です。先ほどの水戸黄門の話に戻りますが、
もし黄門様が越後屋を裁かなければならなくなれば、彼はきっと悩むでしょう。
小さな子供のために悪を許すか、それとも天下の水戸家として悪を許さず裁きを下すか。
黄門様の中に葛藤が生まれます。
そして越後屋も悩むでしょう。自分の息子のためだけに多くの人々をだまし、苦しめ、お金をせしめている。
本当に自分は正しいのか?息子のために関係ない他人から搾取して良いのかと。
これが「ドラマ」です。人の心の中には常にこういった葛藤はあります。
それを描く事が出来た時初めて、キャラクターは「人」になります。
「人」とは
ずいぶんと長く両面性について述べて来ましたが、これは歴史やファンタジーのみに言える事ではありません。むしろ私が述べたかった本論は現代小説についてです。
先ほど述べました、「両面を描く事で小説は生きてくる」ですが、現代ものの場合、どうしてもこれに気づかない事が多くなってしまいます。
例えば三角関係の絡む恋愛小説で例を挙げますと。
主人公(女性)の恋人は優しく面白く、夢がある。しかしその主人公を狙う男の人は何かと悪者扱いされる。
こういう小説を見かけた事はありませんか。
形は変わっても、やはり「性格の二分化」になってしまいますよね。
これをぜひとも避けて頂きたいのです。
恋敵にも見せ場を、恋人にも嫌なところを(特にこちらは難しいですが)。
これがどんな作品を描くにしても必要になると思います。
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